・ n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産

◆ お知らせとお詫びを ◆

先回アップした後、最後に28日に、ルドルフ・ヘスの事やその妻家族、
そしてどちらの収容所にもあった音楽隊の事を書きます、と
終えたのでしたが、
済みません、PCの光ファイバーへの変換でちょっとややこしくなり、
時間が取れずで、日本から戻ってからの事にさせて下さいませ。

決して草臥れて行き倒れ!ではありませんで、戻りましたら
また、よろしくお願い致しま~~す!! では。

*****


失礼し、 まず10月4日から9日まで開催の広島三越での
個展の御案内を見てやって下さいませ。

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私めは来週29日にヴェネツィアを発ち、日本に参りますので、
会場で皆様にお目に掛かれるのを楽しみにしております。

出品作の様子は絵のブログの方でご覧頂ける様、このページの下から
リンクしておりますので、よろしくお願い致します!


*****

先回ご覧頂いた、ナチスのユダヤ人絶滅作戦の一番のシンボル
ともなったポーランドはクラコフ郊外に位置する、
アウシュヴィッツ強制収容所 その2 を。

ポプラの緑色が美しいですが、これは囚人達が当時植えたそうで、
既に80年を経て、手前の木々など、少し枯れかかっている様で、
改めての植林も始まっているそうで。

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この右に見える道と右に広がる広場は、点呼広場。

朝と夕に必ずここに集合し、監視人に点呼をされ、きちんと人数が
合うまで何度も点呼が繰り返され、時に何時間も立ち続けだったと。



そして今回は「バラック6・収容所の生活」の部分を。

これは部屋全体に隙間なく薄いマットレス敷き詰め、寝床になっており、
マットレスと言っても狭い小さなもの、中の詰め物もきっと藁か何かと。

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上に掛ける毛布、毛布と言っても紙袋の中に藁が入っていたと。


そしてこちらは隣の、まさに床に藁が敷かれた部屋。

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廊下の両側の壁全体に、この様に収容された人々の写真が。

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名前が登録された人々の、髪を刈られ、囚人番号を腕に入れ墨され、
縞のお仕着せを着た、記録に残っている人々の写真が並びます。

長く狭い廊下の両側の壁にずらっと並ぶ肖像写真に、上から
眺められながら通って行くのにも、かなりの圧力を感じました。

「登録された人々」というと、当たり前じゃん、と思われるかもですが、
駅のホーム到着時に選別される様になると、労働の為に残された
人々のみが登録され、

他の人々は直接に「シャワーを浴びる」からと誘導され、
その儘帰らぬ人となったのでした。


こういう名も、記録も残っていない人々が100万人程もおり、
イスラエルの「ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記憶のための国立機関」
では、各人の記憶を保存するし追悼する為に創られ、働いているのだそう。



こちらはご覧の様にトイレ。 ですが、到底収容者数には到底不足でしたし、
決められた時間以外は利用できなかったそうで・・!

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洗面台。 こちらも到底数が足らず、きれいな水も不足していたそう。

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カポ・囚人役人、頭の部屋。 1人部屋、ベッドも机も箪笥、洗面台も。

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囚人達は親衛隊のメンバーだけでなく、収容所当局が任命した、
いわゆる囚人役人によっても監督され、

これら任命された囚人たちは多大な権力を有し、仕事を遂行する為、
仲間の囚人を容赦なく監督し、圧力をかける手段は数多くあったと。



こちらは3段ベッドで、一段に2人ずつ。

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ここで「ブロック6」を出て、外の空気を吸い、深呼吸を。

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私は「ブロック11・抵抗者のブロック、死」を見ていないと思ったのが、
撮って来た写真と、写した時間も確かめ、見ていた事が分かりました。

ここの廊下は、大勢の人にまみれて歩き、自分で確かめておらず、
写真の順番も後先混ざり、頭が混乱したのでした・・!


ブロック11は、地下室が囚人の刑務所となり、かのコルベ神父が
閉じこめられ餓死させられた部屋もある、
実際にそれらの部屋は見ておらずですが、廊下に展示の写真を
撮っておりました。


この部屋はここに勤務する親衛隊士官の部屋。 で、彼はゲシュタポ・
秘密警察、の略式法廷でしばしば判決を執行した、と。

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この部屋に見える説明によると、ここはブロック11の1階の部屋。

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ここには収容所の囚人ではなく、警察囚人、ゲシュタポの囚人が
略式裁判に出席し、略式裁判所が彼らに死刑を宣告するのが
一般的で、このアウシュヴィッツに収容される判決は殆ど無かった。

つまり彼らはゲシュタポの、占領下のポーランドにおけるナチス・テロ
の犠牲者であったと。

つまり政治犯としてゲシュタポに逮捕された囚人達がこの部屋に拘禁
されていた、という事なのでしょうね。

右手前に見えるのは、厳重に鍵が掛かっているようですが、何だろ?
ストーブかな、とも思いますが、きっと火は点けられていないと。



この流し、洗面台で、死刑を宣告された囚人が服を脱いだのだと。

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この辺りの写真、すべて反射して見難いのですが、ご容赦。 部屋の
入り口は全てアクリル板で仕切られ、中に入れない様になっていて。



これはブロック11の地下の様子。右上は壁に残された名前と番号、

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下半分の右は、下から入り込む監房。 上に5cm角程の小さい
空気穴があり、この狭い部屋に4人が入れられたとか。

中の小写真は、死刑判決を受けた囚人の身代わりとなった
コルベ神父が入れられ、餓死させられた部屋。



こちらの左は「ブロック10・実験病棟」で、ご覧の様に全ての窓が
外から塞がれており、

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右奥に見える壁が、死の壁、つまり処刑に使われた壁。

ブロック内から処刑が見えない様に塞がれたのか、実験病棟の中を
見たり、叫び声を聞かせない為か・・。



一番奥の塀の前の「死の壁」。 

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かなり薄い切り石を積んだ様で、横の段面でも分かる様に、
丸太を積み、支え、クッションに。

この収容所に各国からの賓客を迎えたり、慰霊祭があると、
この壁の前に花輪が供えられます。



死の壁の処刑を描いた場面。 ここでは後頭部からの銃殺刑。

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収容されていた囚人が描いたそうで、これなど多分絵のプロの方と。

この絵で壁の色が黒いのに気が付かれましたか? 
実は私も見つけた写真に、壁の色が黒いのがあったので、
以前は塗られていたのではないか、と想像しています。



こちら、悪の人体実験等を行った「バラック10」。立ち入り禁止。

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外に張り出されていた内部の写真。  左は暗い廊下、でしょうが、
右の部屋の中に見えるのは、ひょっとして診療台?

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出て来た点呼広場の、これは点呼管理と数について電話をかけて
報告するブースでもあり、悪天候時のSS隊員の避難場所と。

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その横にある、集団絞首刑台。 背後の建物は厨房で、
壁に見える説明に誰と誰がここで・・、と。

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こちらは上でも見て頂いている、囚人だった方達が描いた絵で、
左は、女性囚人たちが靴の整理作業を。

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右は、作業用手押し車を押す男性囚人達。



こちらはユーモラスであり切なくもある、「こぼれたスープを集める」

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画家は、上の「死の壁」と同じ、ヴワディスワ・シウェク。



高電圧の通っていた電線の柵、 そして碍子。

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ここなど囚人達のバラック全部の、一番外側の見張りの道だったと。

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柵の外に出て、これはアウシュヴィッツ所長のルドルフ・ヘスが
1947年4月16日、絞首刑に処された台。

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彼は1946年3月11日、隠れて農園で働いていたのをイギリス軍に
逮捕され、ニュールンベルグ裁判では弁護人側の証人で出廷。

その後ワルシャワに送還され、ポーランド最高裁判所で裁判を受け、
死刑判決を受けたのでした。

彼について、また彼の妻、家族については別にご案内をと。



そして最後、その横にあるガス室、の見学に。

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隣の部屋にある焼却窯。 

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ドイツ軍は退却の時に証拠隠滅で他と同様に爆破して行き、
この2基は復元されたものと。


アウシュヴィッツ強制収容所は、元々政治犯、ロシア軍捕虜の収容所、
として始まり、次第にユダヤ人強制収容所となって行きましたが、
最初はガス窯を備えた絶滅収容所では無かったのですね。

それがナチス政権のユダヤ人に対する対処法の変更に伴い、どの様に
多量のユダヤ人を殺害するか、その後の処理をどうするか、
という問題が起こり、

このアウシュヴィッツでもツィクロンBのガスによるテストが、
ブロック11の地下室で行われ、その効果には満足(!)されたものの、
建物の密閉性に問題があることが分かり、

少し離れたここにガス室、そして焼却窯が設置されたのでした。



こうして我々はアウシュヴィッツIの見学を終え、
高圧線の巡らされた柵の外に出て、

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クラコフからの車に乗り、アウシュヴィッツII・ビルケナウに。

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この眺めを見ながら、午後の見学に備え、道端で渡されていたお弁当、
チーズ・サンドウィッチ2片と、リンゴ、クッキー、水、をもぐもぐと。
その後、入り口付近で先のガイドさん、グループ・メンバーたちと再会。



上空からの写真。 この雲をつかむ様な広大さには驚きのみですが、

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入り口の塔の右上に見えるバラック群は、オリジナルではなく、
戦後の博物館のための計画に従い、後方のバラック群から使える
木材を集め、再建されたものと。

後方遥か彼方に見える木々、林、その一帯迄が敷地だった訳で、
農家があったのを接収し、沼地で、冬は零下20度を超す寒さの中、
土地の整備も施設建設も全て囚人達の強制労働で造り上げたもの。

建設は1941年9月頃より始まり、囚人たちは飢餓、極度の疲労、
低体温、個別の処刑、殴打等により、数週間で死亡したと言います。

同時に収容されていた囚人の数は、最大で10万人!を超えており、
ナチスが目指していた最大20万人には達しなかったと。


ユダヤ人問題の最終解決、すなわちガス室と焼却窯による消滅、
そしてユダヤ人絶滅問題を政府の優先事項とする事を再確認した
1942年1月20日のヴァンゼー会議後、

1944年末まで、貨物列車がドイツ占領下のヨーロッパ全土から
130万人がここ、アウシュヴィッツII・ビルケナウに送られ、
110万人が殺害され、

貨車到着のホームでの選抜により、ユダヤ人96万人の内、
労働不適格と、直接ガス室に送られれたのは86万5千人と。


ヴァンゼー会議については、ミ~タさんの記事こちらを。



あの監視塔を備えた門の下を潜り、引き込まれた鉄道線。

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この先で3車線に分岐し、線路の間のホームを歩いている人々が
見える場所が、選抜場所、でした。



こちらが再建されたバラックで、この木材は元々厩舎用のプレハブで、
ドイツから運ばれた木材だったそう。

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ちょっと分かりにくい地図ですが、右上の下に黄色く囲まれた部分が、
現在残っている再建された部分で、

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左の大きな地図の白く見える位置に。



こちらが全体のマップ。 左上に色分けした凡例があり、日本語で追加
しましたが、地図に赤線でも囲った、ガス窯はガス室の書き間違いで、

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上の鉄道線引きこみの最後に跨る様になっている所が、ガス室、窯II、
右に見える囲いが、ガス室、ガス窯III。 

ガス室、ガス焼却炉のIは、アウシュヴィッツの上記で見たのを指します。

薄いピンクの焼却場、が塗り忘れられたのか見つかりませんが、
確か左のIIの近くにあった、農家跡の敷地に掘られた堀だったと。

一日のガス窯の焼却能力は2000体。 ガス窯での焼却が間に合わず、
露天でも焼却されたそうで、それを指します。

上方真ん中のバラックの水色、下側にも見えますが、
これは略奪した品や、死者たちから奪った品の倉庫。
  
カナダ、との追記は、カナダの国が資源豊富、という事から
こうした倉庫をアウシュヴィッツIでも「カナダ」と
呼び習わしていたと!



こちらがバラックの中で、元々は上記した通り厩舎用、51頭の馬用
のバラックをこの地に建てたものだそうで、

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真ん中に見えるのは暖炉で、


この様にバラックの内部をずっと煙突が続き、向こう側に煙が
抜ける様になってはいるのですが、

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これはジュネーヴ条約の捕虜扱いに準じて造っただけで、
一度も利用された事は無いのだそう!



こちらはトイレのあるバラック内で、単純に穴が開いているだけ、
そして使う時間が決められていたと。

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ガイドさんの話を聞き、付いて歩くとつい写真がおろそかになりますが、
あの写真を、と探したもので、

木の3段ベッドがあるバラックの、床の様子が分かるのを探したもので、
床の部分が少し窪んでいるのが分かりますか。

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ここは汚水の流れ道で、トイレの使用時間は決められていたので!
バラック内の衛生状態、臭気などご想像を!

体力が無くなり、上の段から落ちる事もあり、
零下何十度にもなる冬の様子も想像するに余りあります。



これは1945年1月のロシア赤軍による解放後のバラックの様子で、
ここに400人以上の囚人が収容されていたそう。

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今は単純にバラックの真ん中を通っていた煉瓦の煙突だが残る敷地。
ここでもやはり高電圧の電線が境を警備、分けていたのですね。

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一台残る、貨車。 日陰で説明を聞いているのは、イスラエルからの
巡礼団と。

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大変な暑さの日で、あの当時ヨーロッパ中が酷暑でしたが、ここもで、
奥にあるガス室、焼却炉の破壊跡は、下がコンクリになっていて更に
暑いので、行かない様にガイドさん達にお達しが出ていたそうで、
我々は途中のバラックの陰で説明を聞きましたが、



向こうの道を奥のガス室、焼却窯の痕に向かう先ほどの巡礼の方たち。

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奥の木々の手前、小さな三角屋根が見える辺りが廃墟後で、
その手前に鉄道線の遮断位置が見えます。



こちらはサイトから探した、ガス室、焼却炉、などの廃墟。

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亡くなった方々への慰霊碑。 ガス室、窯 III 近くにある様子。

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20歳の頃大阪で、1960年にアウシュヴィッツを見学の大江健三郎氏
の講演を聞いた事があり、彼は風呂敷包みを抱え登場し、早口で
つっかえながら、様々見て来た、ひどい話を聞かせてくれました。

その時の残っている印象はこれだけで、

今回あれこれ探しましたが大江氏の書かれたものは見つからず、

当時ご一緒だった開高健さんの様々な見学記が、私めは彼の大ファン
だったのでこちらにも持って来た本、全集から見つかりました。

で、今回我らが見せて貰ったものが、如何に少なく、見学に無難な物、
と分かりました。  「“夜と霧”の爪跡を行く」 をどうぞ。


この事はもう、最初に入り口を入った時に察した事ですが、
既に80年を過ぎ、世界中の多くの人が訪問する博物館を分かりやすく
見て貰うためにも必要な事かもしれずで、仕方ないとは思いますが。

ずいぶん昔、こちらイタリアのTV番組で見た博物館の品々、
見た後は随分長い間、夜寝る時に頭に浮かび眠れなくなった品も、今は
多分きっと奥に秘蔵され、単純な博物館見学では見れないのだろうな、と。

怖いもの見たさで望むのではありませんし、それが妥当なのかもしれず、

少しずつ風化しながら、歴史の一齣に、なって行くのでしょうね。

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***

今回でアウシュヴィッツI と II のご案内は終わりますが、
あれこれ読んでいるうちに出会い、もすこし知りたくなった

アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻の事、
そして、どちらの収容所にも存在した音楽隊・オーケストラについて、

出発前に纏めて置きたく、来週木曜28日、
最後にアップできる様頑張りますので、よろしくお願い致します!


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この記事へのコメント

  • YUN

    こんばんは。
    個展が間近ですね。もう出発のご準備はできましたか。
    素敵なDMが届いております! 猫ちゃんのポーズと長い影が良いですよね。お忙しいのに、アウシュヴィッツの記事を纏められて、読みごたえがありました。よく書いて頂けたなぁと思います。
    かなり重い内容で読むだけでも息苦しくなるのに、実際行かれるとまた一層痛感されたことでしょう。
    それでも確かに最初の方の写真など、施設内がとても綺麗で意外でした。世界中から見学に来るので今はこうなってるのですね。展示していないものについても考えさせられましたよ。
    昔、アウシュヴィッツ展でいくつか展示物を見た時に、選別するバーのようなもの(身長で選別していた)が忘れられません。子供が・・・と。
    本当に何でこんなことが出来るのかと思いますが。
    忘れ去られたり、なかったことにならないよう、しっかり歴史の過ちを見つめる場所として保存されないとですね。
    2023年09月28日 02:36
  • shinkai

    ★YUNさん、こんにちは! コメント有難うございます。

    はぁい、いよいよ明日の朝、3時半頃に家を出ます。いつもの様に真っ暗の中を行くのが、まぁ、霧はないだろうと。

    DM、届きましたか、良かった。 かなり印刷が色黒に写っていましたが、本人も日焼けで真っ黒なのです。

    日本に行くのは1年半ぶりで、絵の関係や、親しい昔からの友達と気楽に日本語で話せるのと、ははは、それにやはり食べ物、が嬉しいです。
    今回は最後に奈良に寄る予定で、久し振りの奈良に心が飛んでます。

    アウシュヴィッツの事、有難うございます! ずっと待っていた訪問で、行く前、そして戻ってからもあれこれ出てくる疑問、人物、事柄について読み続けているので、
    ちゃんと自分の中で纏めて書く、それもどこまで書くか、がなかなか難しかったです。

    そうそう、開高健さんの書かれたのをコピーしましたので、ちょっと読みにくいですが、送りますね。

    出発前に最後もう一度更新して、と思っていたのですが、光ファイバーに取り換える工事でちょっと面倒な事が起き、草臥れて、戻ってからに、と諦めました。

    2023年09月28日 13:19