先回の「中世の寝室」に続き、もう一度中世の慣習のお話を。
中世のあれこれについては、なんとなしに分かっている様な、
無い様な・・。 どこか、ホンマかな?という部分が常にあり・・。
無い様な・・。 どこか、ホンマかな?という部分が常にあり・・。
今回のお話は、先回同様中世学者のキアーラ・フルゴーニ・
Chiara Frugoni氏の本
「中世に生きる 女、男 そしてとりわけ子供達」 を基にした
Chiara Frugoni氏の本
「中世に生きる 女、男 そしてとりわけ子供達」 を基にした
今回の記事タイトル通りで、
Come vivevanoi bambini nel Medioevo
https://www.focus.it/cultura/storia/come-vivevano-i-bambini-nel-medioevo
です。
Come vivevanoi bambini nel Medioevo
https://www.focus.it/cultura/storia/come-vivevano-i-bambini-nel-medioevo
です。
まず、新生児が描かれた絵画でいつも見る、このおくるみ姿!
こちらはジョットの描いた、パドヴァのスクロヴェー二礼拝堂の
「生誕」場面。 1302-05年作
さすがキリスト様! 生まれたばかりというのに、シッカリと母上
マリア様を見つめる威厳あるお姿ですが、でもぐるぐる巻き。
マリア様を見つめる威厳あるお姿ですが、でもぐるぐる巻き。
そしてこちらもジョット作、1303年 のおくるみ姿。
で、乳母が赤ちゃんの鼻をつまんでいるのは、泣いた時に鼻をつまみ、
肺が開くように、という事なんですと!
説明によると、とにかく生まれるとすぐにおクルミに包まれた様ですが、
それは柔らかい骨は支えられないと変形する、と考えられていたからで、
ですが当時のそれは、まるで拷問に近い行為で!
1256年に医師のアルドブランディーノ・Aldobrandinoは、
乳母に、新生児に手足の望ましい位置を獲らせ、必要に応じて折り曲げ
「美しい形を与え」、そして布を巻く。 と書いているそうで。
「美しい形を与え」、そして布を巻く。 と書いているそうで。
ウィキペディアの伊版には、イタリアの医師、作家 シエナのパヴィア系
の家庭に生まれ、イスラム医学、サレルノ医学校の教訓に従った
衛生法と栄養学、を出版しているそうなので、これからの教えなのかも。
の家庭に生まれ、イスラム医学、サレルノ医学校の教訓に従った
衛生法と栄養学、を出版しているそうなので、これからの教えなのかも。
イタリアに留まらず、フランスにも行き、最後はウィーンで亡くなった様子。
中世のサレルノの医学校は大変に有名だった様で、こちらにちょっぴり
とにかく、おくるみに包む、というよりも、2mの布が必要だったという、
窮屈なぐるぐる巻きに見えますが、
子供の体を変形させないようきちんと行わなければならないと!
で、布の色は社会階級を示し、貧しい人は黒(麻)、黒というよりも
茶色だったのかも、で、貴族は白、または赤と。
おクルミにする、というのは、オムツの代わりも兼ねていたのでしょうから、
その都度の取り換えもなかなか大変だったでしょうねぇ、
赤ちゃんにとっても!
その都度の取り換えもなかなか大変だったでしょうねぇ、
赤ちゃんにとっても!
で、この中世の赤ちゃんのぐるぐる巻きは、いつ頃から自由になったのか、
その辺りは分かりませんが、
その辺りは分かりませんが、
中世からルネッサンスへの移行期となると、レオナルドの作品
「岩窟の聖母子」1483-85 にも「赤ちゃんのフリー・スタイル」
「岩窟の聖母子」1483-85 にも「赤ちゃんのフリー・スタイル」
が見られ、見る方もホッと。
生き残った子は幸運だった
「中世」と呼ばれる時代、通常5~15世紀迄の非常に長い期間を
通し、乳児の死亡率は非常に高く、
通し、乳児の死亡率は非常に高く、
一部の歴史家によると、子供の3人に1人は、5歳になる前に亡くなったと。
これは1499年末の子供の埋葬図
裕福な階級では、生来の母親が母乳で育てる事は殆ど無く、
むしろ母親が新たに妊娠できる様、父親が「契約」で雇った乳母に
子供を預けるのが普通だったといい、
むしろ母親が新たに妊娠できる様、父親が「契約」で雇った乳母に
子供を預けるのが普通だったといい、
で、乳母との契約が終了すると、父親の命令で、子供が次の日から
乳母の乳からお粥に変わる事が起こり!
乳母の乳からお粥に変わる事が起こり!
大体にして、この離乳食への移行は早すぎる事が多く、重大な健康
リスクを伴い、ひいては死亡も引き起こしたそうで。
リスクを伴い、ひいては死亡も引き起こしたそうで。
睡眠時の危険性
新生児が陥る可能性のある致命的なリスクの1つは、ベッドからの転落で、
この出来事は決して珍しい事ではなく、シモーネ・マルティーニが描いた
この作品の様に、1324年
この作品の様に、1324年
揺りかごから落ちた子供を、福者アゴスティーノ・ノヴェッロが
救う場面。というか、生き返らせる奇跡の場面。
この絵の揺りかごは、床に置かれた揺りかごではなく、ロープで天井から
吊り下げられたもので、ブランコの様に押される揺りかごですね。
吊り下げられたもので、ブランコの様に押される揺りかごですね。
またもう一つの危険は、子供を添い寝させた乳母に、新生児が
押しつぶされて窒息死する可能性もあったと。
押しつぶされて窒息死する可能性もあったと。
そしてもう一つの危険は、野良犬。
年長の子供たちが町に出始めた時、もう一つの脅威は犬の攻撃で、
余りにも頻繁に起こる為、不注意な乳母が、他の種類の事故を
隠すための「言い訳」として使われる可能性があったそうで。
隠すための「言い訳」として使われる可能性があったそうで。
こちらもシモーネ・マルティーニ作の、福者アゴスティーノ・ノヴェッロが
犬から子供を救う場面。
犬から子供を救う場面。
福者アゴスティーノ・ノヴェッロの奇跡を描いた絵画、実物大はこちらで、
真ん中に福者アゴスティーノ(1240-1309)、耳元で囁く神の声の天使。
左側の下は、2階のテラスから落ちた子供を救っている場面で、
右上は、これは旅人が山道で落馬したのを助けられたのか、子供では
無いと思うのですが、
無いと思うのですが、
子供を助けた奇跡により、福者として崇められている方。
シエナのサン・タゴスティーノ教会に元はあった祭壇画で、現在は
シエナの国立絵画館に収蔵。
シエナの国立絵画館に収蔵。
サン・タゴスティーノ教会、ってどこにあったっけ、と地図を見ていて、
建物だけは、谷越しに見ていた事に気が付きました。
建物だけは、谷越しに見ていた事に気が付きました。
シエナ サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話
https://www.italiashiho.site/archives/202301-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/202301-1.html
で、再び、中世の子供たちの大変さ、に戻りまして、
家庭内での教育
子供が幼い間は、現在でも同じ様な、家庭内で果物の名前から
文字を教えたり・・。
文字を教えたり・・。
この図は現在のものですから、当然当時は無かった果物も多いですが、
きっと野菜を調理しながら名前を教え、皮をむきつつ切り取ったり、も。
これも現在と同じですよね。
これも現在と同じですよね。
アルファベットの文字を装飾に使った、こんなカップなどもあった様子。
アベチェーダリオ・abecedario と鞭
そして裕福な家庭の子供たちが成長すると、痛み、がやって来ます。
つまりご褒美に基づいた家庭内教育から、罰と刑罰で構成される
教師による教育に移行するわけで。
つまりご褒美に基づいた家庭内教育から、罰と刑罰で構成される
教師による教育に移行するわけで。
この絵からもわかるように、教師はしばしば鞭と関連付けられており!
現在ウィーンに保存されている1273年の原稿、だそう。
読む事を学ぶ為に生徒たちはアルファベットが書かれた石膏下地が
塗られた木の板を、
上端近くに穴があり、それを紐で腕にぶら下げて運んだそう。
塗られた木の板を、
上端近くに穴があり、それを紐で腕にぶら下げて運んだそう。
文字は板面に、1行に4文字ずつ配置され、子供達は一日に4文字を
学ぶように推奨されていたのだそう。
学ぶように推奨されていたのだそう。
で、初日は a b c d の文字に捧げられ、
そこから abecedario・アベチェダーリオ という言葉が付けられたものと。
なるほどぉ。
なるほどぉ。
この話題だと我々はすぐ、寺子屋、を思い出しません?
悪さをしたり、怠けたりすると、時には拳骨位貰ったかもですが、
鞭とはねぇ!
鞭とはねぇ!
で、子供たちの学ぶ姿、という図をパッと思い出したのが、
ヴェローナのサン・フェルモ・マッジョーレ聖堂・San Fermoで、
こちらを。
先生は高い席に座り、子供達を監視し、子供達はしっかり聞く子も
ボケ~っとしている子も、ははは。
クリプタへの階段脇にあったのも記憶どおりでしたが、こんな感じで。
で、撮った写真がどこに紛れたか見つからず焦りましたが、旧ブログの
記事の説明ではよく分からず、サイトを見に行き、
記事の説明ではよく分からず、サイトを見に行き、
なんとも凄い見事な木組み天井と、
マンテーニャの有名な祭壇画がある教会、というのも思い出しました。
2度行ったのに、祭壇画はともかく、天井の木組は見てない!
のです。 情けなぁ、どこに目が付いているんだぁ!! 出直さんと。
のです。 情けなぁ、どこに目が付いているんだぁ!! 出直さんと。
皆で遊ぶ
このピーター・ブリューゲル・父 が1560年から製作したこの絵の中に、
子供から少し上の若者まで200人以上が、100以上の遊びを
しているのだそうで!
でも今の時代から見ても、当時の子供達との遊び自体は余り変わって
いない様ですねぇ。
いない様ですねぇ。
左下角・女の子2人が向き合って白い物を投げ上げている、距骨とあり、
つまり羊や雄羊の踵の上の短い骨、を投げ上げて、何の動物かを
当てるゲーム、だそうで、まぁ、これは今はしませんねぇ。
つまり羊や雄羊の踵の上の短い骨、を投げ上げて、何の動物かを
当てるゲーム、だそうで、まぁ、これは今はしませんねぇ。
傍らの戸口内では、人形で遊んでおり、 最初の2人の女子の背後の
テーブルでは、右に鳥かごを作りつつ、鳥と遊んでいる子がおり、
テーブルでは、右に鳥かごを作りつつ、鳥と遊んでいる子がおり、
真ん中の水色の子は、シャボン玉、の様で、壁際の少し大きな子は、
真ん中の棒にプロペラ状のものをつけ、下で糸を引き、それを回し。
真ん中の棒にプロペラ状のものをつけ、下で糸を引き、それを回し。
壁に添って上を見ると、多分目隠しの鬼ごっこと。
上方には、花嫁ごっこ、行列しており、 馬飛びをしたり、 竹馬も見え、
鉄棒ならぬ、横木で遊んでいたり、 左上のテラスではこま回し、
一番下手前では、輪回しも、 ecc.ecc.
鉄棒ならぬ、横木で遊んでいたり、 左上のテラスではこま回し、
一番下手前では、輪回しも、 ecc.ecc.
それ用に作られた玩具は殆ど無いようですが、子供達は自分達で
なんとかやって楽しんでおり、
何よりも当時の子供時代は、非常に短い期間だった、と。
このブリューゲルの「子供の遊び」はウィーンの美術史美術館に。
男子向けのゲーム
男の子達は主に屋外で、独楽・コマ、輪、羽・テニスなどを使って遊び、
実際には、羊飼いが上から群れを統御し、家畜の間を素早く移動する
為に使われた竹馬もあり、
為に使われた竹馬もあり、
冬が近づき豚が屠殺されると、子供達はその膀胱を貰え、膨らまし、
風船のようにして遊んだりも。
風船のようにして遊んだりも。
人形
小さな女の子が遊んでいる姿を描いた中世の作品は殆ど無く、
人形を持って描かれた小さな子供達は、より高い社会階級に属します。
人形を持って描かれた小さな子供達は、より高い社会階級に属します。
下層階級の女の子たちは、おそらく人間の形を真似た木片で遊ぶのに
満足していたでしょうが、それにしても一般的に少女達には殆ど無かった
に違いなく、
満足していたでしょうが、それにしても一般的に少女達には殆ど無かった
に違いなく、
家に居る事が多く、母親の役割を学び、家事の手伝いをした、というか、
させられたのですね。
させられたのですね。
そして上流階級の女の子の持つ人形は娯楽以上に、彼女を待つ
未来を形作る役割を示し、つまり妻や母親、あるいは修道女。
そうなんですね、女子が多いと上の子は結婚しても、持参金の問題も
ある為、修道院に閉じ込められた様で・・。
ある為、修道院に閉じ込められた様で・・。
上の肖像画の2歳の女の子は、完全にドレスアップした人形を持ち、
オーストリアの将来の女王イザベッラ(エリザベート)・Isabella,Elisabet
1502年作 ウィーン、聖ジョージ・ギルドのマスターの祭壇画に。
という所でサイト記事は終わっているのですが、このオーストリアは
ハプスブルグ家出身のイザベッラ、とその周辺について調べると、
かなりの驚きがあったので、お話しますね。
ハプスブルグ家出身のイザベッラ、とその周辺について調べると、
かなりの驚きがあったので、お話しますね。
彼女、将来のデンマーク王妃、ノルウェー王妃、スウェーデン王妃と
なった方ですが、(1501-1525)僅か23歳で亡くなるという・・。
なった方ですが、(1501-1525)僅か23歳で亡くなるという・・。
父は美公フィリップ4世ブルゴーニュ公、母がカスティーリア女王ファナ・
狂女ファナの次女として生まれ、神聖ローマ皇帝カール5世の妹、
という一家の出身。
狂女ファナの次女として生まれ、神聖ローマ皇帝カール5世の妹、
という一家の出身。
母、カスティーリア女王ファナ
母親が精神に異常をきたし養育が出来ない状態であったので、
他の兄弟姉妹と共に、叔母のマルグリットがネーデルランドで養育。
他の兄弟姉妹と共に、叔母のマルグリットがネーデルランドで養育。
1515年14歳のイザベッラはデンマーク王クリスチャン2世の妃として
嫁ぎますが、クリスチャン2世は粗暴で残虐極まりない人物!
嫁ぎますが、クリスチャン2世は粗暴で残虐極まりない人物!
こちらが夫となったクリスチャン2世(1481-1559)
かなりの年の差、20歳ほどの違いが。
政治面でもかなりの残虐さを見せた様子ですが、ここでは夫婦関係に絞り、
1507年頃からオランダ人少女ディヴェケ・シグブリッツダッター・
Dyveke Sigbritsdatter、(1490年頃生まれー1517.9.21)
皆さん、一度で発音OK、この名?!
美しい普通の少女、というのですがぁぁ、彼女が17歳位から
クリスチャンの愛人となり、彼にとってはとりわけ重要な関係となり、
クリスチャンの愛人となり、彼にとってはとりわけ重要な関係となり、
正式の婚姻関係を結んだイザベッラを顧みず、大変に厚遇していたのが、
彼女の母親が娘を煽り、自分の兄弟や従兄弟たちもデンマークに
呼び寄せ、政治の中枢に据え牛耳った、ともあり、
呼び寄せ、政治の中枢に据え牛耳った、ともあり、
オーストリアのハプスブルグ家にとって非常に大きな国際政治ゲームの
1つとなり、デンマークの貴族を利用しての「ディヴェケの毒殺事件」に。
1つとなり、デンマークの貴族を利用しての「ディヴェケの毒殺事件」に。
この貴族トーベン・オックスは、有罪証明は無かったものの、死刑に。
2人の物語は当時の世論に衝撃を与え、人気物語となった、と
ありましたが、はぁ、さもあらん、ゴシップは大きい方が面白いですものね。
ありましたが、はぁ、さもあらん、ゴシップは大きい方が面白いですものね。
王妃イザベッラは、クリスチャン2世が失政し王位を失い、亡命を
余儀なくされた後も、国に戻ることなく、死ぬまで暴虐な夫と共に生き、
貞淑な妻、とは思っても、経済的にも大変だったらしい生活、を読むと
気の毒であり、王妃の名のみの、抑圧され続けた人生だったんだろうな、と。
気の毒であり、王妃の名のみの、抑圧され続けた人生だったんだろうな、と。
中世も終わりに近い、ルネッサンス間近な、ヨーロッパのお話でした。
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