この12日は、私shinkaiのLXXVIII歳の誕生日で、
例の友人2人とピッツァ!を食べに、はい、ご招待頂きまして、
久し振りのピッツァを美味しく頂きましたぁ。
例の友人2人とピッツァ!を食べに、はい、ご招待頂きまして、
久し振りのピッツァを美味しく頂きましたぁ。
ですがね正直な所、誕生日の少し前から、頭の中、口の奥、
精神には、かなり執拗に「お寿司、刺身」が渦を巻きつつ現れ、
精神には、かなり執拗に「お寿司、刺身」が渦を巻きつつ現れ、
余程に一人で出かけようか、とも思ったのでしたが、
先に「一緒に!」と念を入れられておりましたので・・。
秋の日本で食べた、美味しいお寿司やお刺身、海苔巻きおにぎり
等などが、どうも頭にしっかり残っていた様で・・、くすん。
等などが、どうも頭にしっかり残っていた様で・・、くすん。
まぁこちら、我が家のある田舎では寿司屋のメニューの魚は、
サーモン、エビ、トビコ位、味も満足できない事も確かでして。
サーモン、エビ、トビコ位、味も満足できない事も確かでして。
そんな所に、我が絵の師二木さんの奥様竹ちゃんから届いた
こんなお誕生日カードには、お寿司、美味しい物満載!!
こんなお誕生日カードには、お寿司、美味しい物満載!!
これは広島での個展終了翌々日に、広島から淡路島のお墓参り、
そして新大阪から東京、新松戸と、暗くなって到着した私めを
迎えて下さり、
そして新大阪から東京、新松戸と、暗くなって到着した私めを
迎えて下さり、
お寿司を食べたい、私めはスシローと言ってたのですが、ははは、
もっと上等なお寿司屋さんに連れて行って頂いた時に食べた物。
もっと上等なお寿司屋さんに連れて行って頂いた時に食べた物。
いやぁ、本当に驚いたのは、何を食べたか、よくぞ覚えて!! で、
はぁ、見ながら、そういえば、と思い出しつつ、ああ、こんなのをねぇ。
はぁ、見ながら、そういえば、と思い出しつつ、ああ、こんなのをねぇ。
写真も撮ってないのを、あれを描こう、と思いつかれての夜中に
目が覚め、あれこれ思い出された、というのですが、凄いなぁ!!
私など、これを見ながら、そういえば・・、という感じで、へへ、
今改めて見ながら、よよと泣き崩れ・・、と迄は無いですがぁぁ、
あぁ、次はいつ食べられるかなぁ・・!!
あぁ、次はいつ食べられるかなぁ・・!!
竹ちゃん、有難うございましたぁ!!
*****
という所で、年の瀬も迫り、今年の初夏に出かけて来た
アウシュヴィッツ関係、ホロコーストの名残りをなんとか閉めたいと、
アウシュヴィッツ関係、ホロコーストの名残りをなんとか閉めたいと、
今回は、アウシュヴィッツ強制、絶滅収容所に存在したオーケストラ、
アウシュヴィッツには男性のみの、
アウシュヴィッツには男性のみの、
第2アウシュヴィッツのビルケナウには女性によるオーケストラが
あった、そのお話を。
アウシュヴィッツには男性のオーケストラがあり、毎日主要門から
働きに出かけ、帰ってくる囚人の為に演奏した、というのは有名ですが、
働きに出かけ、帰ってくる囚人の為に演奏した、というのは有名ですが、
単にその時だけでなく、週末のコンサート、ナチの為の音楽会にも
演奏させられたのですね。
演奏させられたのですね。
そして今回あれこれ読みながら見つけたこの写真は、
1942年7月、ポーランド人囚人ハンス・ボナレヴィッツが逃亡に失敗、
「私はいつもあなたの帰りを待ってます」という歌と共に
「私はいつもあなたの帰りを待ってます」という歌と共に
絞首台に、の様子と。
そうなんですね、朝夕のゲート前での演奏のみでは勿論無く、
こういった事は、第2アウシュヴィッツの、ビルケナウ絶滅収容所でも
同様だったと。
同様だったと。
n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/article/500789573.html
https://www.italiashiho.site/article/500789573.html
アウシュヴィッツービルケナウ収容所主席は、終戦後に
アウシュヴィッツで処刑されたルドルフ・ヘスですが、
ビルケナウでの女性最高位は、マリア・マンドル・Maria Mandl
(1912-1948) オーストリア出身のナチ親衛隊兵士、女性看守。
1938年26歳の時に様々な職業を経た後、SSの女性部隊に入り、
訓練の後、強制収容所の看守に、ラーヘンシュブリュック強制収容所に
配置されて以来、1939年囚人に対する残忍さですぐに頭角を現した、と。
訓練の後、強制収容所の看守に、ラーヘンシュブリュック強制収容所に
配置されて以来、1939年囚人に対する残忍さですぐに頭角を現した、と。
1942年10月に第2アウシュヴィッツ・ビルケナウに配属され、
ここで1943年6月女性囚人者のみの47名構成のオーケストラを組織。
ビルケナウ絶滅収容所の女性囚人のオーケストラの名を高めたのは、
プロの音楽家が3人参加していた、させられていた事で、
名が残るアルマ・ロゼ・Alma Maria Rosè(1906-1944)は
並外れたヴァイオリニスト。
並外れたヴァイオリニスト。
父親アルノルドはヴァイオリニスト、ウィン・フィルの
コンサート・マスターを50年間務めた、と言う方、
母親ジュスティーヌは、かの作曲家グスタフ・マーラーの妹で、
アルマと言う名は、この叔父の妻アルマ・マーラーにちなんで、と。
戦前アルマは非常に成功したキャリアを積んでおり、女性オーケストラ、
ウィーン・ワルツ・ガールズを設立し、非常に高いレベルでの
ウィーン・ワルツ・ガールズを設立し、非常に高いレベルでの
ヨーロッパ・ツァーで、大変有名だったそう。
彼女は一度結婚したものの離婚となり、母親は1938年死亡、
1938年にオーストリアがドイツに併合後、父と一緒にロンドンに逃げ、
1938年にオーストリアがドイツに併合後、父と一緒にロンドンに逃げ、
彼女1人オランダに行き、音楽活動を再開、と思ったものの、
1940年5月にはオランダもナチスに占領され、
1940年5月にはオランダもナチスに占領され、
オランダ人技師との架空の結婚も、キリスト教者への改宗者、
という名目も彼女を守ってくれず、
という名目も彼女を守ってくれず、
フランスに逃亡したものの、1940年6月フランスも降伏、
1942年末にスイスに逃亡しようとした所をゲシュタポに逮捕され、
ドランシー強制収容所で数か月過ごし、1943年7月アウシュヴィッツに。
到着後アルマは病気で重体となったものの隔離され助かり、
アウシュヴィッツ女性オーケストラ・Mädchenorchester von Auschwitz
(ビルケナウ)のリーダーシップを引き継ぐことに。
アウシュヴィッツ女性オーケストラ・Mädchenorchester von Auschwitz
(ビルケナウ)のリーダーシップを引き継ぐことに。
n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/article/500863140.html
https://www.italiashiho.site/article/500863140.html
アルマ・ロゼ到着以前は、ポーランド人教師ゾフィア・チャコウスカの
指揮により、主にアマチュア音楽家で構成され、弦楽器のほかに
アコーディオンとマンドリン、低音セクションは無かったと。
オーケストラの主な役割は、アウシュヴィッツの男性オーケストラと同様
朝夕に正門での演奏、囚人到着の際の選別にも、そして囚人や
親衛隊の為の週末コンサート、その他親衛隊の式典、また楽しみに。
時刻、天気に関わらず、いつでもどこでも、命ぜられる時に。
この写真は実際に撮られていたものか、それとも後の映画のシーンか
よく分からないのを、お断りし。
彼女達は、アウシュヴィッツの男性オーケストラも同様と思われますが、
他の囚人達に比べ、より良い食事を与えられ、重労働は免除、
より暖かい衣服を、着崩れが少なく、毎日洗濯でき・・、
つまり一言で言うと、地獄の最深部にある、小さな天国の一郭とも。
ナチス側にはロゼが収容されて以来、素晴らしいファン、かの医者の
メンゲルやヨーゼフ・クラマー・ルドルフ・ヘスの副官もおり、
メンゲルやヨーゼフ・クラマー・ルドルフ・ヘスの副官もおり、
許される範囲の様々な特権を与えられた事が窺えますが、
カポ・ユダヤ人看守同様に、個室も、と。
カポ・ユダヤ人看守同様に、個室も、と。
ロゼはコンサート中の指揮、そして時にヴァイオリンのソロ演奏、
そしてオーケストラを優れたグループに変える事に貢献し、
リハーサルの時に、メンバーや他の囚人の精神向上のために、
ポーランドとユダヤの作曲家による禁じられた音楽を演奏させたり、とも。
ポーランドとユダヤの作曲家による禁じられた音楽を演奏させたり、とも。
が、こうしたビルケナウでの10カ月後、1944年4月5日彼女は
恐らく食中毒、と言われる急病で37歳の死を。
恐らく食中毒、と言われる急病で37歳の死を。
こうした彼女の努力にもより、オーケストラのメンバー達は
「余命4カ月未満」
と言われた収容所生活を、彼女の任期中も死後も生き残り、
2人のメンバーを除く全員が生き抜き、戦争終結を迎えます。
と言われた収容所生活を、彼女の任期中も死後も生き残り、
2人のメンバーを除く全員が生き抜き、戦争終結を迎えます。
オーケストラの様々な事情、については、仏人の歌手兼ピアニストの
ファニア・フェネロン・Fania Fénelon(1908-1983)が 詳細に
書き残こしたものが出版されており、
ファニア・フェネロン・Fania Fénelon(1908-1983)が 詳細に
書き残こしたものが出版されており、
これは「Playing for Time」として映画化も。
この本は「アウシュヴィッツの女性オーケストラ」と。
映画の中で主人公ファニアに扮したのは、ヴァネッサ・レッドグレーヴ。
そして他の一場面。
shinkaiは昔一度TV放映で見た記憶がありますが、
歌手に扮したヴァネッサの歌の下手さに落胆もし、
こうした状況内でのあり得る事だろう様々な忌まわしさの描写に、
正直少々辟易した事を覚えています。
今見たら、また違った感想かも、ですが。
ファニア・ファネロンは1943年にこのオーケストラに加わった様で、
となると、アルマ・ロゼとどちらもが同じ頃に顔合わせをした事になり、
後年のフェネロンの自伝に描かれたアルマ・ロゼの様子は、
部下に厳しい懲戒規則を課す、これはドイツ人たちを喜ばせ、
良い印象を与える為であり、良く世話をされ、きちんとした服装を
するなどの特権と物質的利益を得るためで、
マチスの要求にすべてを従った、と非難し、
マチスの要求にすべてを従った、と非難し、
また同じメンバー間のあからさまな恋愛や売春もほのめかし、等と、
ロゼの友人やファンの激しい反応を引き起こしたそうで。
そして映画の主人公に扮したヴァネッサ・レッドグレーヴに対しても、
まず彼女の政治的信条に対し、そして自身は背が低いのに、彼女は
高いなどなど、たくさんの反対意見を強硬に述べていたそうで。
まず彼女の政治的信条に対し、そして自身は背が低いのに、彼女は
高いなどなど、たくさんの反対意見を強硬に述べていたそうで。
なんと言うのか、2人とも同じ状況にいたのに、死後にあれこれと
先だった者を引き下げる様な言動は、あまり聞き良い物でなく、
・・これは日本人的信条かもしれませんが。
あれこれ読む間に、このビルケナウでの女性オーケストラの記事は
書くのをよそうか、とまで思ったのでしたが、
書くのをよそうか、とまで思ったのでしたが、
を読み、フェヌロンの「アウシュヴィッツにはオーケストラがあった」
という本に、
音楽家たちの、肉体的な苦しみもあったものの、それ以上に心理的な
苦しみが描かれ、
苦しみが描かれ、
特定の特権を享受しているという意識が酷い罪悪感を植え付けたり、
まもなくガス室に送られる他の追放者の前で演奏するのを強制されると
さらに悪化した、のみならず、
さらに悪化した、のみならず、
オーケストラを存在させてくれた人々に対する物議をかもす
感謝の気持ちが、罪悪感にさらに深い恥辱の感情を加えた、と。
(親衛隊の)残虐行為を知らなかった訳でなく、彼らに出来る限り
最善を尽くして演奏したり歌ったりする生存本能が、
最善を尽くして演奏したり歌ったりする生存本能が、
彼女らの名誉意識と自分自身への愛を圧倒し、押しつぶした、と。
アウシュヴィッツ・ビルケナウでは人間は絶滅し、ともに人間の道徳も
消滅し、残るのは、何を犠牲にしても生き続け様とする試みだけ。
囚人同士の残虐行為、他人の痛みに対する鈍感さ、共感力の萎縮。
等などに対し、
アルマとファニアは希望と生存の象徴であり、痛みを伴う
芸術の担い手であり、絶対的な悪であっても、情熱がどの様に生き残るか、
抑圧者の犠牲者に陥る事から情熱がどの様に救ってくれるか、の例である。
芸術の担い手であり、絶対的な悪であっても、情熱がどの様に生き残るか、
抑圧者の犠牲者に陥る事から情熱がどの様に救ってくれるか、の例である。
と書かれているのに、そうなんだよね、と思い返し、
上の部分を皆さんにも読んで頂きたく、ご紹介いたしました。
アルマ・ロゼの急病に対し、かのメンゲル博士自身が世話をし、
残虐者の名を取るマリア・メンデルも彼女の死を悼み、
歴史的前例のない、ナチスはユダヤ人音楽家の追悼式を行ったそうで。
歴史的前例のない、ナチスはユダヤ人音楽家の追悼式を行ったそうで。
こうしてアルマ・ロゼという強い引率者を失った後は、オーケストラの
指揮者はロシア人の囚人に変わり、選曲も一貫せずで、
1944年11月1日、ユダヤ人メンバーは家畜運搬車でベルゲン・ベルゼン
収容所に送られ、そこにはオーケストラも特別な特権もなく、
収容所に送られ、そこにはオーケストラも特別な特権もなく、
1945年1月には、アウシュヴィッツ-ビルケナウは解体され、
オーケストラの他のメンバーはベルゲン・ベルゼン送られ、
オーケストラの他のメンバーはベルゲン・ベルゼン送られ、
2人が死亡、おそらく病気が原因で、
でも他のメンバーは終戦迄生き残り、これこそアルマ・ロゼの
願った事だったのではないでしょうか。
願った事だったのではないでしょうか。
正しい文は記憶に朧ですが、
アウシュヴィッツの女性オーケストラにとって、ヴァイオリンは
シンボルとなり、
また唯一持ち出せる楽器であった、とありました。
また唯一持ち出せる楽器であった、とありました。
ずいぶん昔、リュータイオ・弦楽器制作者になる為にイタリアは
クレモナに留学した方からお聞きした事がありますが、
クレモナに留学した方からお聞きした事がありますが、
彼の先生はユダヤ人だったそうで、その思い出に、
家の一番良い場所にヴァイオリンが常に架けられていた。
それは何時か他所に行ける時に、すぐ持ち出せるように、と。
家の一番良い場所にヴァイオリンが常に架けられていた。
それは何時か他所に行ける時に、すぐ持ち出せるように、と。
という言葉にどこか通じるものとして、今回も一つ私の中に残りました。
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