昨年6月にかねての念願であったアウシュヴィッツ訪問が出来ました。
あれこれの感想、そして現地で受けた既にかなり遠い印象もあり、
自分が受けた印象と考えを纏める為にも、少しでも真実に近寄り
知りたく、それぞれの事柄、関係者についてのいくつもの記事を、
出かける前から、そして戻ってからも、本当にあれこれ読みました。
知りたく、それぞれの事柄、関係者についてのいくつもの記事を、
出かける前から、そして戻ってからも、本当にあれこれ読みました。
既にアウシュヴィッツ=ビルケナウのご案内は済みましたので、
n.1 アウシュヴィッツ強制収容所訪問 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20230918-1.html
n.2 アウシュヴィッツ、ビルケナウ絶滅収容所 ポーランド 世界遺産
https://www.italiashiho.site/archives/20230924-1.html
https://www.italiashiho.site/archives/20230924-1.html
今回は最初知った時はかなり驚いた所長ルドルフ・ヘス一家の事、
つまりあの強制収容所のすぐ隣脇に住んでいた所長一家の事、
彼の妻と彼らの生活振りについて知った事を今回ここに。
そして昨年カンヌ映画祭でグランプリを受け、この1月末に日本でも
公開される映画「ゾーン・オブ・インタレスト」が、
内容は、どうやら私めの疑問に答えてくれる様な映画、と知り、
ああ、漸くに、と思い、昨年春以来公開を待っておりますが、
ああ、漸くに、と思い、昨年春以来公開を待っておりますが、
映画の資料となった現実との違いはない様子ですし、
アウシュヴィッツが舞台とはいえ、おどろおどろしい場面はなく、
アウシュヴィッツが舞台とはいえ、おどろおどろしい場面はなく、
1人の女性の生涯、という様な意味でも、彼女の後半人生は
これまたちょっと変わっており、関心をお持ちになれると。
これまたちょっと変わっており、関心をお持ちになれると。
アウシュヴィッツに関しては、所長であったルドルフ・ヘス・
Rudolf Höss(1901-1947)の手記もあり、
Rudolf Höss(1901-1947)の手記もあり、
45年に渡る生涯を淡々と、ナチのSS軍人として最善を尽くす為に
大車輪で働き、麾下の軍人達の疑問も苦しみも慰め励まし・・、
大車輪で働き、麾下の軍人達の疑問も苦しみも慰め励まし・・、
を始めとし、他にもたくさんの記事が書かれておるものの、
あれこれ読む内に、アウシュヴィッツ強制収容所の地図に見える、
囲いのすぐ脇の所長住居に家族と一緒に住んでいたのが
最初に分かった時はかなりの驚きでした!
囲いのすぐ脇の所長住居に家族と一緒に住んでいたのが
最初に分かった時はかなりの驚きでした!
赤線で囲んだ収容所のブロックの右上角に見えるのが、所長宅。
序に言いますと、左の林の区画の端に四角く囲ったのが、ガス室と
ガス窯の建物で、その横の小さな楕円は、ヘスが処刑された台。
ガス窯の建物で、その横の小さな楕円は、ヘスが処刑された台。
こちらが現在博物館となっている、ヘス一家の住んだ元所長宅。
左側の駐車場らしき横に塀があり、その向こうに見える赤い壁が収容所。
つまりヘスが仕事で転勤になる毎に家族も移り、アウシュヴィッツへの
移転は確か3回目だったか、
つまり彼らの5人の子供の内の4人は幼年期をここで過ごした事に。
移転は確か3回目だったか、
つまり彼らの5人の子供の内の4人は幼年期をここで過ごした事に。
で、あれこれ最初に読んだ記事には、所長ヘスは妻の手料理を
楽しみ、家族を愛し、将来の非難を考え、家族の指紋等が
表に出ぬように気を使っていた、
ガス窯での処刑については妻に隠していた、というのは出ても、
楽しみ、家族を愛し、将来の非難を考え、家族の指紋等が
表に出ぬように気を使っていた、
ガス窯での処刑については妻に隠していた、というのは出ても、
妻なる人物については、出ていないのですね。
一般に人物伝には、X年にXXと結婚、と出るのが普通なのに、
X年に結婚、はあっても相手の名が全然出ないのがおおく、
逆にshinkaiの疑問と好奇心を引き、調べ、
X年に結婚、はあっても相手の名が全然出ないのがおおく、
逆にshinkaiの疑問と好奇心を引き、調べ、
遂に名前を知り、そうなると次々と分かる事も増えたものの、
他にも、彼女はあの収容所の外とはいえ、すぐ近くに住みながら、
塀の向こうで一体どんな感情を持っていたのか、など、
疑問を持つ人の記事も結構見つかり、そう、私も、と。
塀の向こうで一体どんな感情を持っていたのか、など、
疑問を持つ人の記事も結構見つかり、そう、私も、と。
親衛隊中佐ルドルフ・ヘスの妻 ヘドヴィヒ・ヘンデル・
Hedwig Hensel
1908年生まれ、 1929年8月17日 21歳で結婚。
2人には5人の子が生まれ、
1940年からアウシュヴィッツの所長宅に移り、
1943年迄ヘスはここで家族と共に生活し、ある種の安らぎを
得ていたと。
で、最後の子はアウシュヴィッツで生まれています。
この家は、バス・ルームとキッチンを除き10部屋あり、
毎日通ってくる使用人が2人、これはエホバの証人の会員である為に
抑留された女性で、教義で労働を掟とするため、ヘスの家のみでなく、
子供の多い家、隊長官舎の清掃も、農場も、まるで心配なく任せられ、
ヘスの家でも3年以上、2人の年配の女性に家事まかせっきりで、
子供たちの世話も素晴らしく、子供もなついていた、と手記に。
子供たちの世話も素晴らしく、子供もなついていた、と手記に。
馬に情熱を持っていたヘスは、囚人兵舎よりも設備の整った施設の
厩舎を持ち、優秀な混血馬が収容されていて、
厩舎を持ち、優秀な混血馬が収容されていて、
彼によると、疲労し鬱屈があり、そのまま家に帰る気がせぬ時に
馬に乗り走り、鬱を晴らしていたそうで。
馬に乗り走り、鬱を晴らしていたそうで。
夫婦関係も問題なく行き、妻も特別に彼の仕事に関心を持たず、
夫の仕事場を訪ねる事も勿論なく、
料理上手な彼女は料理に気を使い、勿論上等な食品、ワインに
不足する事は無し、
欲しいものは何でも夫に言うだけで叶い、
素晴らしい花壇も持ち、到着のユダヤ人から没収した素晴らしい衣類、
毛皮なども届き、彼女は「ここはまるで楽園の様」と表現したと・・。
毛皮なども届き、彼女は「ここはまるで楽園の様」と表現したと・・。
ヘスが妻には仕事について、とりわけガス処刑については嘘をついていた、
というのは上記しましたが、
ガウライター・大管区指導者なるフィリッツ・ブラハトがアウシュヴィッツを
訪れた時、多分家庭の食卓に招いたものと思いますが、
訪れた時、多分家庭の食卓に招いたものと思いますが、
その時に彼の発言を聞き、ヘスの妻は夫が「ユダヤ人のガス処刑」を
している事を知り、以来夫とベッドをともにする事を拒否した、と。
している事を知り、以来夫とベッドをともにする事を拒否した、と。
この事は夫の方も、妻が事実を知って以来、2人の関係は余りない、と
漏らしたそうで・・。
漏らしたそうで・・。
妻がアウシュヴィッツの真実の一端を始めて知った驚き・・!
shinkaiが最初に驚いたのは、一家が本当に収容所の塀のすぐ外に
ある家に住んでいたという事で、
ガス焼却窯からの灰が降ったり、すぐ近くを流れる川にはガス窯からの
灰を捨てていた、というし、塀の向こうから銃声も聞こえるだろうし、
灰を捨てていた、というし、塀の向こうから銃声も聞こえるだろうし、
そういう場所に平気で住めたんだろうか、と思ったのでしたが、
が、まぁ、ドイツ民族が優秀で、戦争中で、その囚人たちが塀の向こうに
収監されているのだから、時に逃亡者も出て銃殺される事もあるだろう、
という様に考えれば、真実を知らなければ大丈夫だったのかもだし、
ユダヤ人から没収した上等な毛皮等も、夫のプレゼントと考えたのかと。
そんなこんなの不足ない、天国のような生活も永遠に続く訳が無く、
1943年11月にヘスは家族をアウシュヴィッツに残し、汚職や、オーストリア
出身の政治犯との愛人問題により地位を解除され、が、
出身の政治犯との愛人問題により地位を解除され、が、
昇進という名目で一旦離れ、
妻の第5子出産も近く、ヘスは過労のため6週間の休暇を山荘で1人過ごし、
1944年5月にはまたアウシュヴィッツに復任しますが、既に敗戦も近く、
1945年4月には、ハインリッヒ・ヒムラーからの生き残るために
「国防軍に紛れ込め」との命令で、ドイツ海軍兵士になりすましたのが
イギリス軍の捕虜になり、が、イギリス軍は正体を見破れず釈放。
その後は北ドイツで偽名で、農家で働き始めます。
イギリス軍諜報機関は、ベルゲン・ベルゼン収容所の解放と生存者の
尋問ののち、アウシュヴィッツの重要性とヘスの役割に気づき、
尋問ののち、アウシュヴィッツの重要性とヘスの役割に気づき、
ヘスの家族を捜索、居場所を特定、監視下に置き、
1946年3月8日長男と一緒に住んでいた妻のヘドヴィクが逮捕され、
夫は死んだ、とのみで6日間何も話さずで、子供達と一緒にシベリアに
強制送還すると脅され、遂に夫の住所を明かし、
夫は死んだ、とのみで6日間何も話さずで、子供達と一緒にシベリアに
強制送還すると脅され、遂に夫の住所を明かし、
1946年3月11日ヘスは捕らえられ、その後ニュールンベルク裁判には、
証人として出廷し、
証人として出廷し、
その後身柄をポーランドに引き渡され、最高裁判所に出廷、与えられた
質問に対し簡潔かつ正確に答え、自分の行為を自慢せずに認め、
死刑判決を受け、1947年4月16日絞首刑に。
ニュールンベルク裁判中アメリカ人精神科医の1人レオン・ゴールデンゾーン
はヘスと頻繁に面会し、
はヘスと頻繁に面会し、
ヘスに罪悪感を感じている可能性につき直接質問すると、
「今それは良くなかったことに気づいた」 そして、
「降伏するまでは命令を正しく実行したと信じていた。・・ しかし、
降伏後ユダヤ人の絶滅は言われていた様なものでは無かったという
結論に達し、今日、他の者たちと同じように罪悪感を感じている」と。
アメリカ人心理学者のギュスターヴ・ギルバートの
ハインリッヒ・ヒムラーによる絶滅命令についての質問に対し、
「命令の実行を拒否するという考えすら思い浮かばなかった」と 答え、
「ヒムラーはそれを命令しており、その必要性についても説明していた。
それが悪いことなのかどうかなど一度も自分に問いかけたことはなく、
単に彼にとってそれが必要なことのように思えただけだった」 と。
ルドルフ・ヘスについての、ウィキペディアのフランス語版を
ご興味ある方はどうぞ。 優秀記事の印を与えられ、かなり詳細な記事です。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Rudolf_H%C3%B6ss
こうして夫ルドルフ・ヘスが亡くなった後、妻のヘドヴィクと子供達は
どうなったか、ですが、
1945年ロシア赤軍の到着が迫り、家族全員が避難を余儀なくされ、
長男と一緒に住んでいた彼女は、デンマーク国境近くのゴットトルペルで
逮捕されますが、夫の住所を教えた後、子供達と共に釈放され、
長男と一緒に住んでいた彼女は、デンマーク国境近くのゴットトルペルで
逮捕されますが、夫の住所を教えた後、子供達と共に釈放され、
その後ヘドヴィヒはドイツ、確かベルリンで働くうちに再婚し、アメリカに。
ワシントンD.C州だった様で、1989年9月15日に81歳で亡くなるまで、
そこで暮らしたと。
そこで暮らしたと。
娘の1人は「インゲビルデット・ブリギット」と呼ばれ、アメリカでモデル
となり、その後ワシントンD.C のユダヤ人経営のファッション・ブティックで
35年間働いていたそうで、
35年間働いていたそうで、
笑顔の写真を。
今年度のアカデミー賞も獲得したようですね。
時代とその変遷、人種、様々な大波小波の激動の時に生きた人々、
良く行った人、悪く行った人、酷い最期を迎えた人々、・・・、
良く行った人、悪く行った人、酷い最期を迎えた人々、・・・、
余りにも大きな時代のうねりで、本当に起こったとも思えない様な事で!!
いま私達はあちこちに戦争が起こっている時代に、直接巻き込まれずの
位置に居れる事の幸せを受け取っていますが、
だからと言って、今の位置からの、単純に当時を裁く言葉は慎みたいと
願っています。
願っています。
どこまでが真実なのか、知る程に事柄が大きくなっていき・・!
様々な人の生き方を知り、眺め、そしてこの年になり、自分の人生を
如何に終えるか、どう望むか、とのみを真摯に考える様になりました。
如何に終えるか、どう望むか、とのみを真摯に考える様になりました。
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この記事へのコメント
tama
この記事を拝読いたしまして、ヘスの子供達は生を全うしたようで、ホッといたしました。ゲッペルス一家のように子供までが殺されるのは忍びないです。
イスラエルのガザ攻撃以来、ユダヤ人が被害者という映画は正直、見る気が大分失せているのですが、日本では「関心領域」は6月上映で、必ず観たいと思っております。
shinkai
はい、アウシュヴィッツ収容所所長のルドルフ・ヘスの子供達は皆無事に成人し、アメリカで亡くなった様ですね。
仰るゲッペルスというのは、宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルスの6人の子供達と思いますが、はい、6人の子が、一番小さな女の子は4歳だったそうですが、確か安定剤を与えられた後に青酸カリを。
きっとヒトラーと同じ総督地下壕に住んでいたので、逃げようも無かったのだと想像しますが、哀れでした。
「関心領域」を見に行かれますか、はい、私はブログに書いたように、収容所のすぐ横に住んでいた、という驚きから関心を持ったのでしたが、
2月末にこちらで上映され、見て来ました。
既にアウシュヴィッツもビルケナウも見学後でしたし、映画にはそういった事柄は殆ど現れず、
一般家庭、それも夫がかなり昇進した事による生活の安楽さ、を嬉しく受け取る妻の、事実の重みをまるで感じていない様な様子が描かれ、ああ、そうだったんだ、と。
これは彼の家庭のみでなく、当時のドイツ社会全般の様子だったのだろうと。
是非ご覧になって下さいね!!
私は、今のイスラエルのしている事と、当時のナチス下の事は、まるで別の事柄、と考えています。
きっと当時のドイツでもあったろうと思われる、政府反対の意見がまともに通らない時代で、
問題は、どちらもお互いの宗教の信条が違うがらみが、尽きない問題なのだろうと思います。
そちら様のブログのアドレスも知り、映画がお好きな様なのを知り、訪問させて頂きますね。
有難うございました!