・ かっての「西部劇」の騎兵隊の馬たちは、どの様に消えて行ったの?

皆さんも「西部劇映画」はよくご存じで、余りお好きではなくとも、
有名な古い映画等はご覧になられておいででしょ?

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で、あれらの映画に登場し活躍していた、たくさんの騎兵隊の騎馬たちは
いつ、どの様に消えて行ったか、ご存じか、
たまた考えられた事はおありですか?

今回は、何年も前に見た映画の印象が深く残り、その後はどうなったのかと
暫く前から頭に浮かび、あれこれ読み、知った事の様子、周辺事情を。

あれこれ知りたくなった発端は、この映画「遥かなる栄光」のタイトルで、
日本でも配信されたのかも。1995年作。

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元々はTV用映画だった様子ですが、出演者もドン・ジョンソン、
ロッド・スタイガー等の出演で、最初はTV放映で映画自体の出来も
良く、素晴らしいと思い、後にDVDを買い何度か繰り返し・・。

内容は、1932年、深刻な経済問題もあり、ヨーロッパの戦争気運への
成り行きからアメリカもいざ戦争参加となった事を考えると、当時の
アメリカには戦車はたったの10車!という有様で、

マッカーサー将軍はテキサス州駐屯の、第12騎兵隊の騎馬509頭の
殺戮を命じたのが、若い士官とそれに従う4人の軍曹が最初の100頭の
抹殺の哀れさを見て、

到底命令に従う事は出来ないと拒否し、残る400頭を引き連れ脱走
北に進路を取り、追尾してくる軍との厳しい追いかけごっごになるものの、

3000kmアメリカ大陸を縦断、最後はカナダとの国境の川を越え逃げ込む、
という筋でした。

雪山を越える、蹄鉄がチビて付いて行けなくなった馬達の辛い殺戮、
4人の内1人は、追いついて来た兵に撃たれ死亡。

それでも最後の最後は、追尾して来た軍がわざと大砲の射程を長くし、
馬達がその下を走り抜け川を渡り、向こうで待つカナダの守備兵の元へ、
という、
動物好きのshinkaiなどウルウルの、映画だったのですね。


で、改めて今回あれこれ追跡してみると、この出来事は公の記録は
何も無く、残らず、誰それの話では、誰かから聞いた話では・・、
という様子なのだそうで!

まぁ、「一切記録にない」というのが、「実際に無かった事ではない」、
というのは大いにありうる事で、はぁ、それはさておき・・、


実際の所、いつ、どのように騎兵隊が消えたのか、騎兵隊の馬達が
消えたのか、という事があれこれ分かりましたので、ここにご報告を。


まず上手く引っかかってくれた 米のテキサスはオースティン州の、
Stephen f. Austin State University、スティーブン・F 州立大学のサイト記事2014年10月

騎兵隊の最後の馬  リッキー・ロバートソン・Rickey Robertson 

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かっての騎兵隊の馬を懐かしみ、騎兵隊も偲び、追悼の気持ちも深い
とても良い文章なので、中断しながらですがご紹介しますね。

  1941年のルイジアナの大演習の時を生きた人は、誰でもトラックと
  戦車の長い隊列、行進する歩兵部隊の長い列、干し草畑に着陸する
  可能性のある小さなバッタ飛行機、大きなキャンプ、野営地は
  テントと兵士でいっぱい、  
  ですが誰もが話題にするのは騎馬隊の事。

  ルイジアナ演習中、第1騎兵師団と第2騎兵師団の2つの
  完全騎兵師団に加え、他の幾つかの騎兵連帯が
  サビーヌ演習地域全域で活動しました。

地図をどうぞ。 サビーヌ・済みません, a が抜けましたが、
へへ、分かりますよね。
ついでにお隣テキサス州の幾つかの街の特定、Austin の位置も。

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ダラスとサン・アントニオの半ばに見えるフォート・カヴァーゾス
Fort Cavazosは、
現在も騎兵隊の名が残る「大1騎兵師団」の本拠地で、

2023年迄はフォート・フッドの名でしたが、
現在は馬は儀礼用のみの歩兵師団との事で、この大1騎兵師団は
第2次大戦以来全ての戦争に参加を。


  埃をかぶった騎兵の長い縦列が何時間にも渡って通り過ぎるのを
  見るのは良くある事で、騎馬隊の長い縦隊は昼夜を問わず移動し、
  しばしば騎馬に水を飲ますためだけに立ちどまる事が多かった。

  住民らは、顔に飼料の入った袋を吊るした騎馬隊が縦隊を組んで、
  オート麦やトウモロコシを食べながら移動している姿を覚えている。

  多くの田舎の人々は、騎馬用に追加のトウモロコシを手に入れようとした、
  農家のトウモロコシの飼料場で兵士を捕まえたと報告しており、

  騎兵は自分の必要よりも先に騎馬の世話をし、騎兵の最も貴重な
  軍事備品は馬だったのです。


1941年ルイジアナ大演習中の、忠実な騎馬とその騎兵。

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ーーー  騎馬部隊が演習の前後に使用され、馬の病気や負傷も多く、

  補給セクションはルイジアナに、数百頭のラバと共に、800を超える
  代替えの騎兵騎馬が使用可能な状態での補給所を設け、

  これらの馬とラバは即使用できる状態になっており、
  つまり既に基本訓練を受け、馬達は全ての動きと全てのターンを知り、

  そしてそう、彼らは全ての軍隊ラッパの音色を知り
  その音色を聞いた時に何をすべきかを正確に知っていました。


そうなんです、上にご紹介の映画でも、散らばって草を食んでいる時でも
ラッパの音を聞くと、皆が一斉に顔を上げ、音の方向を見、そして
次のラッパで一斉に歩き出し、次のラッパで速足に、そして次に走り出し・・、
という、

見ているこちらの背筋がすっと寒くなる様な場面があり、あのシーンは
時々思い出す程。


-- そして時代は確実に動き、変わって行くのですね。 
 
  そしてアメリカ軍内には新たな事が起きていました。
  戦車、ハーフ・トラック、その他の装甲車両の登場により、

ハーフ・トラックとは何か、と調べましたら、 
戦車とトラックの良いとこ取りの姿。

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  騎兵隊は段階的に廃止されなければならず
  そんなことはあり得なかったのが、が、確かにそれは起こった


この写真は、騎兵から機械化部隊へのバトンタッチ、という訳で。

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  南北戦争、インディアン戦争以来、1941年迄騎乗していた有名な
  騎兵連隊は、その名の知られた騎馬を放棄しなければならなかった。

  ルイジアナ作戦の終わりに、愛されていた騎兵騎乗は機械化された
  車両に交換されましたが、

  騎兵・騎士にとって騎乗馬は自動車よりも信頼できるものでした。

  ベテランの騎兵なら、鞍に乗り、装備を騎乗に置き、3分半以内に
  隊列を組む事が出来ます。

  陸軍の騎馬部隊は演習中に素晴らしいパフォーマンスを発揮しましたが、
  高速の機械化部隊に取って代わられつつあり、

  部隊がテキサス州ニュートンのコートハウス・スクエアの基地に戻る途中、
  ルイジアナ演習場を離れると、多くの部隊が解散し、愛馬を引き渡し始めた。


  しかし、これらの部隊が馬を引き渡すと、アメリカ陸軍補給官課は
  16歳以下の全ての騎兵馬を売り払い始め、

  他の古い騎馬は全て、カンサス州フォート・ライリー・Fort Riley
  輸送され、基地内で放牧されました。


つまりこの1941年のルイジアナ演習が、実の騎兵隊の姿が見られた最後で、

それ以前1921年9月に第1騎兵師団に配置され、が、騎兵としての
訓練を続けており、
上にご紹介のルイジアナでの大演習は、1941年8月8日から
10月4日までの大規模なものだったとも分かりました。

この第1騎兵師団なるものは、歴史を鑑み騎兵師団と名を残すものの、
歩兵師団で、上記の通り、第2次世界大戦からずっと戦争に参加。

名の出たカンサス州のフォート・ライリーというのは、
地図でご覧頂くとこの地にあり、

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米軍の、フォート・ライリーと第1歩兵師団の歴史 を読み、これまで
良く分からなかった、いわゆる騎兵隊の成り立ちが漸くに何とか!

つまりこのフォート・ライリーという基地は、西に移動する人達の移動と
交易保護の為、戦略的要所に多数置かれた軍事駐屯所の1つで、

1853年1月に陸軍省によって承認されたこの場所が、軍隊を組織し、
訓練し、装備するのに有利な場所として、6月にフォート・ライリーとなり、

「フォート・ライリー」砦の名付け親となった、ベネット・C・ライリー少将

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徐々に拡張され、南北戦争1861~1865、インディアン戦争1866-1871、
軍隊が投入、駐屯、移動し・・という流れを繰り返しますが、



このフォート・ライリーに1866年、後にリトル・ビッグ・ホーンの
インディアンとの戦いで全滅したジョージ・A・カスター名誉少将が
到着し、新しい連隊の指揮を執った、というのもここの歴史に入ります。

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彼はインディアン戦争にここから出かけ、長引くと、妻に会う為
無断でフォート・ライリーに戻ったりで、軍法会議にかけられ、1年間の
停職処分を受けたりも、はは、あったそうで。

現在にも名の残る騎兵連隊の将でありましたが、様々な物議を
醸した人物でもあった様子ですね。



で、1866年9月21日カスター中佐の指揮の元第7騎兵隊
フォート・ライリーで組織されたのが、
我々が名を良く知る「騎兵隊」なるものの起こりと漸くに納得!


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済みませんです。 分からない事の疑問に中途で出会うもので、
その都度何度も読み返したり、探したりで・・! 
ゆっくり読んでやって下さいませませ。


この星条旗は、1876年のカスター将軍のリトル・ビッグ・ホーンの
戦いの後に見つかったものだそうで、現在と星の並び方が違いますね。

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そして最初のフォート・ライリー砦はこんなだったのが、

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測量技師の撮った、フォート・ライリーの全景が見える1866年の
一番古い写真と言われる姿となり、

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1890年の版画では、この様に。

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毎年入植地が西に延びるにつけ、砦は次第にその重要性の一部を失い、
他に大規模な軍隊が駐屯する砦も出来てきます。


1880年代後半第7騎兵連隊が20年の空白を経てフォート・ライリーに戻って来た時、
その連隊の重要なメンバーの1人はこの騎馬コマンチ・Comanche

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コマンチはリトル・ビッグ・ホーンの戦い、カスター将軍の指揮下で
唯一生き残った第7騎兵隊員で、第1部隊指揮官マイルズ・E・キーオ大尉の
騎馬だったのだそう。

この馬は殺害された兵士の遺体の中に立っていたのを発見され、
7つの傷を負い、その内の3つは重傷だったのを、騎兵たちによって
介護され健康を取り戻し、儀式の任務に割り当てられたと。

コマンチは戦闘後更に15年間生き、1891年に30歳で亡くなり、
彼は最終的に複製にされ、現在はカンサス大学キャンパス内の
ダイチ自然史博物館に展示と。


インディアン部族との敵対が弱まるにつれ、多くの辺境の砦が閉鎖され、
フォート・ライリーは1884年「陸軍騎兵隊司令部」となり、
残ったのだそうで、

騎兵たちの黄金時代、と言われる次の時代、彼らは乗馬スキルと能力を
磨き、継続的にテストし、ロシアン・ライドと呼ばれるこんな訓練も。

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馬と騎手の関係を改善するにも良く、優秀な騎馬兵士となり、その評判は
世界の騎馬学校と肩を並べる程にもなったと。

ヒヨドリ越え、も出来そう!



そして、ここでまた最初に引用していた記事「最後の騎馬隊の馬」に
戻りますね。

カンサス州のフォート・ライリーに移された古い騎馬たちは、

  長い年月に渡り、これらの馬たちは徐々に死んでいき、1頭だけが
  米陸軍の目録とその役割に残されました。

  チーフ・Chief、大きな栗毛の去勢馬は、フォート・ライリーに
  住んでいた最後の騎馬。

  1932年生まれ、1940年に州の購買代理店により、代替え馬として
  163ドルで購入され、

  ネブラスカ州のフォート・ロビンソンで就役し、初期訓練の後1941年
  4月3日にフォート・ライリーの第10騎兵連隊に配置され、

  彼は様々な部隊や騎兵に配属されるためにフォート・ライリーに到着した
  6000頭の騎馬の内の1頭だったのですね。


  こうして1941年のルイジアナの大演習の後に騎馬騎兵部隊が
  解散した後も、チーフ・Chiefを含む3頭が現役として残りましたが、

  チーフは1949年半ばに退役し、1958年初めに最後の現存する
  騎兵として完全に退役し、

  残念な事に、1968年5月26日、最後の騎乗馬である彼が亡くなり、
  36歳まで生きたものの、これは人間の年齢に換算すると108歳!


こちらがアメリカ陸軍最後の騎馬、チーフ。

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こちらは、完全は騎兵装備を見に着け、フォート・ライリー獣医師事務所の
前に立つチーフ。

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   チーフの特別な葬儀と埋葬はフォート・ライリーで行われ、彼の為に
   特別な棺が作られ、チーフはその中に立ったまま安置され、

   フォート・ライリーの司令官は、チーフとその米陸軍での勤務について
   スピーチをし、

   米軍楽隊が「ブーツ・アンド・サドルズ」を演奏する中、葬列はチーフを
   墓にまで運んだ。


フォート・ライリーには、建物正面にオールド・トルーパー・古参騎兵士
の像があり、その前に葬られた、と読みましたが、この像ではなく、

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別の通りの新しい像の前に、最後の騎兵隊騎馬は葬られている様子。

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特別の、立ったままの姿で埋葬、というのに米陸軍の心を感じ、

時代の流れの中に消えて行った騎兵隊とその騎馬を思い、
ちょっと心が締め付けられた感じを。


ーー 騎馬のこの素晴らしい名残は残っているのでしょうか?

  はい、それはサビーヌ・大演習のあった場所、ヴァーノン・Vanon,
  ナキトシュ・Natchitoches教区に存在し、

  ピーソンリッジ軍事保留地・Peason Ridgeには、今でも野生馬の
  大群がいて、

  これらの馬を見れば、その祖先が騎兵隊騎馬だったのがすぐ分かります。

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  政府のリストには載せていないかもしれませんが、あの素晴らしい馬を常に
  思い出させてくれる、彼らの先祖がまだいます。


長くなりましたが、かっての馬たちの雄姿を思い出して頂けたら、
shinkaiめもとても幸せで~す。


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この記事へのコメント

  • 夜のネコ

    こんばんは☆
    いつも長い長いメール、また送ってますが、目がチカチカしてたらすみません!!
    いつも喋る感じで書いてしまうので、要領の得ていないもので申し訳ないです……

    騎馬、
    確かに騎兵隊のお馬さんはいつ無くなったのか、
    最近は戦車や車ですから不思議に思ったことがなかったですが、
    確かに昔は馬が移動手段であり、戦闘の重要な道具、でしたよね
    (もっと時代を遡ると装飾品という位置づけもあったかも……?
    ナポレオンの馬に乗ってる肖像画とかを思うと、ステイタスある男には必ず馬も描かれているイメージです笑)

    道具と書きましたけれど、馬は家族や子供以上の、一心同体のような強い繋がりがあったのでしょうね
    立ったまま埋葬というのが、うるっときます……

    なんか…、人間の男性に馬面というとあまり良い感じしませんけど(失礼ょー)、本当の馬の顔はキリッとしていて賢そうで、イケメンですよね…笑

    失礼しました~!
    2024年03月27日 19:33
  • shinkai

    ★夜のネコさん、 こんにちは! 長いコメントも有難うございま~す。
    いぇ、長いメールも愚痴とか、お怒りだと困りますけど、そうでなかったら、私は好きで楽しませて頂きます。
    それにお返事も、あれこれこちらも書きやすいですもの。

    そう、馬の値は、やはり優秀な、美しい馬ほどお高かったのでしょうねぇ。 実際の値は知りませんけど、きっと高級車並みのお値段だったろうと。
    ナポレオンの乗っている、ドラクロアの描いたあの白い馬など、超高級車でしたでしょうねぇ!

    騎兵隊の馬は、敵軍の中に突っ込んでいく馬ですから、訓練も受け尻込みなどしない様に、しっかり訓練されたのでしょうし、でも考えると可哀想。

    騎兵それぞれに馬がいて、名も勿論、お互いに気持ちが通じる様になる程に世話をし、分かれるのは辛かったでしょうねぇ。

    米軍の騎兵隊が編成され、そして隊が解散されるまでの期間は、なんと75年間くらいだったのですね、計算してみたら。

    ヨーロッパでの騎兵はもっと昔からあったのが、第1次大戦での新兵器に対しての騎馬隊の弱点がもろに出て、これがやはり契機となったようですね。

    勿論馬を使っての様々な仕事、荷の運搬や馬車などはずっと前からあったでしょうし、またも少し長く使われていたでしょうが・・。


    さて、私めは明日朝からミラノに出かけ、とはいえ、はは、日帰りですので、戻ってからメールのお返事を。
    回転寿司、を食べるチャンスがあるかも!!なんで~す、うひひ。






    2024年03月28日 01:07
  • 夜のネコ

    なんと!ミラノで回転寿司!!
    チャンスはありましたでしょうか?!
    イタリアでの回転寿司興味あります!
    お店の外観も気になるところ!!
    2024年04月02日 15:49
  • shinkai

    ★夜のネコさん、こんにちは! コメント、それも「ミラノの回転寿司」に釣られての、ははは、有難うございます。

    はい、行く前々日に、確かドゥオモの横のリナッシェンテのデパートの一番上で、昔お寿司を食べたっけ、今もあるかな、と調べたら、どんぴしゃりで、

    BASARA Sushi というのが、どうやらイタリア人と日本人シェフがやっているらしいのですが、一番上の階がカフェやら何やら、食べもの階になっている一角にありました。

    店の名前で検索すると出ると思います。

    ステンレスの四角い台の上を回って来て、まぁ、日本に比べるとお魚の種類も少なく、とはいえ、我がコネリアーノに比べると多く、

    ワサビは小皿に入っており、味噌汁はお水かな、というほど薄く、
    でも一緒に行ったアンナリーザは美味しい、と言いましたので、
    その辺りがね。

    そしてマグロは普通に握りで出て来ましたが、他はね、イタリアのあちらでもこちらでもやっている、お子様向けの様なお寿司も多く・・。

    でも秋に日本から戻ってずっと口が「魚恋し」、のままになっているのがなんとか少し落ち着きましたです。
    キリンの小瓶もありましたしね。

    またどこか、近い所でマシな店を探さないといけないな、と思っていま~す。


    2024年04月03日 05:17