先日6日のTVニュースに、1944年、80年前のこの日、
ナチ占領下のフランス、ヨーロッパを解放する為の、アメリカ、
ナチ占領下のフランス、ヨーロッパを解放する為の、アメリカ、
イギリス、カナダ軍の、7千の部隊と、数万人の兵士が
フランスのノルマンディ海岸に上陸、ヨーロッパの解放戦を開始した、

映画「史上最大の作戦」、そして「プライベート・ライアン」、
そして様々な小説でも皆さんも良くご存じの、
ノルマンディー上陸作戦が行われ、その80周年記念、という事で、
ニュースには、バイデン大統領やマクロン大統領の顔も並び、
チャールズ国王もお出でだったのですね。
チャールズ国王もお出でだったのですね。


映画の中で見た、オマハ・ビーチのアメリカ軍兵士の墓地も再度
見かけたのでした。
見かけたのでした。

そしてその2日後だったか、ナショナル・ジェオグラフィックの
ノルマンディの戦場写真は、かの有名なロバート・キャパの写真はじめ、
たくさん見知り、ダウンロードもしていますが、
たくさん見知り、ダウンロードもしていますが、
このサイトで初めて、現在の浜の様子の写真を見つけ、余りこれは
見かけないし、鎮魂の碑でもあるから、皆さんにもご案内を、と
思ったのが、今回の記事の始まりです。
見かけないし、鎮魂の碑でもあるから、皆さんにもご案内を、と
思ったのが、今回の記事の始まりです。
せめて年に1度でも、あの酷い海岸線での戦闘で亡くなった方々、
アメリカ人の墓地には、行方不明兵士を含め9387名が
葬られているそうで、
アメリカ人の墓地には、行方不明兵士を含め9387名が
葬られているそうで、
他にイギリス人兵士、カナダ人兵士、そしてその後の長く続いた
大陸内での戦闘の死者も含め、
大陸内での戦闘の死者も含め、
そして、先日久し振りに見たイーストウッドの「硫黄島からの手紙」に、
改めて、このような島で、あの環境で、日本兵士が亡くなって行ったんだ、
と思うと、胸が詰まる想いがし、
改めて、このような島で、あの環境で、日本兵士が亡くなって行ったんだ、
と思うと、胸が詰まる想いがし、
せめて今の平和な国で過ごせているその下には、たくさんの方たちが
辛い思いをし、生きたくとも生きれなかった、その方々を思うのも、
生きさせて貰っている我らのささやかな供養になるのかも、
辛い思いをし、生きたくとも生きれなかった、その方々を思うのも、
生きさせて貰っている我らのささやかな供養になるのかも、
と思ったのでした。
ノルマンディ上陸作戦の後、フランス領土は8月25日のパリ解放となり、
76日間の戦闘で連合軍は21万の兵士を失い、ドイツ軍は20万人の
死者と、20万人の捕虜を失ったと。
この場合の捕虜、というのは、何を指しているのか、少しわからない部分で。
この上陸作戦の舞台となったコート・ド・ナクル・真珠の母と呼ばれる
この美しい海岸全体に、
戦場、爆撃によって残されたクレーター、墓地、戦争博物館が点在し、
この海岸で起こった恐怖を物語ります。
上陸作戦D デイの舞台となったこの海岸は、5つの区域に分けられ、
アメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍とでカバーする計画で、
この地図をどうぞ。 右上に見える様に、突き出した半島がコタンタン半島で、
東側のちょうど窪みとなった部分の海岸に、
東側のちょうど窪みとなった部分の海岸に、
左から順に既にお馴染みの名、 ユタ、オマハ、米国 ゴールド、英国
ジュノー、カナダ ソード、英国 と上陸したのですね。

興味深いのは、これら海岸のコード名は、各作戦の指揮官が選んだそうで、
ユタ、とオマハは軍隊の指揮を執る上層部の土地の名に由来し、
ユタ、とオマハは軍隊の指揮を執る上層部の土地の名に由来し、
ソードとゴールドは、イギリス将軍モンゴメリーに選ばれた魚の名で、
ジュノーは、クラゲのジェリー・・、が選ばれたものの、最後は
中佐ドーネイの妻の名ジュノーとなったのだそうで。
ユタ・ビーチ・Utha Beach

兵士像の後ろに見えるのが上陸用舟艇。 兵士達は設計士の名に
ちなみ「ヒギンス」と呼んでいたそう。
ちなみ「ヒギンス」と呼んでいたそう。
舟艇の長さ11m、幅3m、前部は開いて浜に接岸する為にスロープで、
これに兵士36名と、乗組員3名が乗ったのだそうですが、
これに兵士36名と、乗組員3名が乗ったのだそうですが、
夜明けの、この決戦を決めた朝は霧も出ての荒れた海で、兵士達は
艦船から乗り移り、浜に着く迄1時間ほどかかり、船酔いを・・!
艦船から乗り移り、浜に着く迄1時間ほどかかり、船酔いを・・!
このユタ・ビーチは湿地帯で、ドイツ軍は敵の上陸には適さないと考え、
特に人員配置はなかったのだそう。
1944年6月6日の午前6時25分、アメリカ第8歩兵連隊の兵士達が
20隻の上陸用舟艇により海岸に近づけられ、フランスの地に初めて触れ・・。
20隻の上陸用舟艇により海岸に近づけられ、フランスの地に初めて触れ・・。
ドイツ軍の監視が不十分であり、損失は他の海岸に比べ明らかに限られて
いたものの、ここの装備や武器の重さで多くの兵士が溺死を。
いたものの、ここの装備や武器の重さで多くの兵士が溺死を。

今回は各浜の戦闘についてのみ簡単な説明をさせて頂きますが、
下に各戦争博物館のある位置地図を。
下に各戦争博物館のある位置地図を。

詳細をお知りになりたい方は上記したサイトをご覧頂くと、良くお分かりと。
1つここに書くのは、連合軍の悲劇もですが、ドイツ軍跡地の博物館も
も訪問される事をお勧めします、で、
も訪問される事をお勧めします、で、
Crisbecq Battery・クリスベック砲台 isle A1, 1 Rte de Crisbecq,
50310 Saint-Marcouf, Francia 地図位置3
50310 Saint-Marcouf, Francia 地図位置3
というのも、ドイツ軍には、彼らが直面する悲しい運命を知らない
少年達が配置されていた事が非常に多かったのだそうで、
多分戦争も末期になっていたので、とりわけそうなのでしょうが、
完全に復元された寮、診療所、台所など、一部には日用品も備えられた、
戦時中の砲台での生活を語っているそうで。
戦時中の砲台での生活を語っているそうで。
サント・メールエグリーズ・Sainte-Mère-Église 位置地図4

この小さな村は鐘楼で有名になった、というと、あっ、あれかな?!と
思われた方もおられるかと。
思われた方もおられるかと。
はい、私めもよく覚えている「史上最大の作戦」にエピソードが描かれた、
上陸中の連合軍降下部隊の兵士のパラシュートが教会の尖塔に引っ掛かり、
2時間程も吊るされていたそうで!
2時間程も吊るされていたそうで!
で、それを記念し、今も教会の屋根にはパラシュートが引っ掛かった
兵士のマネキンがね!
この村はフランスで一番早く連合軍によって解放された村、となると。
オマハ・ビーチ・Omaha Beach



上陸作戦で一番の激戦地であったオマハ・ビーチ。
最後は、R・キャパの写真で。
7kmの海岸沿いに繰り広げられた、劇的で最も血なまぐさい戦闘地で、
スピルバーグの「プライベート・ライアン」で描かれたシーンは、
凄まじく、でも、きっとそうだったんだろう、と思える真実感が漲り。
ドイツ軍が砂丘の頂上から容赦なく発砲する銃弾で、海岸に到達するや
否や倒れる兵士達。
否や倒れる兵士達。
この日上陸した約35000人のうち、約2000名が砲火に晒されたのでした。
ノルマンディ一帯の指揮官はロンメル将軍。 かれは上陸軍阻止の為に
海中に3重に爆破物、障害物を設け、
高波の中では隠れる高さの為、上陸舟艇はそれをよけ高波、強い風に
煽られ、流され、細かく指定されていた位置に到達できず、
煽られ、流され、細かく指定されていた位置に到達できず、
なんとか浜について舟艇のスロープを降ろした途端に機銃一斉放射を受け、
兵士36名がそのまま死亡、というのも多く、
兵士36名がそのまま死亡、というのも多く、
舟艇はそのまま艦に戻り、死体を降ろして後また兵士を乗せ海岸に。
海岸から離れすぎて舟艇が止まると、兵士達は飛び込むものの、
救命胴衣を着けていても装備の重量で、火炎放射器を背負った兵士の
荷の重さは36キロもあり、水に入った途端に沈み、
仲間たちの驚異的な手が彼を掴み、引きずってくれ、機関銃の球を避け、
堤防迄の200mを乗り越え、Dデイを生き延びた幸運な兵もおり。
堤防迄の200mを乗り越え、Dデイを生き延びた幸運な兵もおり。

午前7時上陸の第2波が始まり、 8時になり次々と上陸波が押し寄せる
ものの、未だに地獄のオマハから逃れる道はまだ開かれておらず、
ものの、未だに地獄のオマハから逃れる道はまだ開かれておらず、
状況は非常に危機的で、上陸したばかりの米軍将校は部下に移動を
促す為、「この海岸に残るのは2種類の兵士だけだ。 死んだ者と、
これから死に至る者だ」と叫んだと。
促す為、「この海岸に残るのは2種類の兵士だけだ。 死んだ者と、
これから死に至る者だ」と叫んだと。
漸くに9時頃、数人の小さなグループが的を絞った行動で陣地を
確保し、浜の側面に移動し、小さな隙間を開け、
彼らはオマハを通過した最初の同盟国軍と。
海岸での戦闘が激しくなる一方で、小さなグループがゆっくりと
頭上の塹壕を征服する事に成功、
こうして視界は徐々に改善、海軍は部隊を海岸から1キロまで移動させ、
艦砲は目標を正確に特定して射撃できるようになり、この砲撃のお蔭で
サン・ローラン・シュル・メールの村の前に通路が開け、
サン・ローラン・シュル・メールの村の前に通路が開け、
歩兵と最初の戦車が通過出来る様になったのが11時半、
死の地獄の浜を抜けるのに、5時間かかった事に!
午後2時になり、最終的にさらに3つの出口を開ける事が出来、
オマハの東、ヴィエルヴィル・シュル・メールの町の前、2つは西の
コルヴィル・シュル・メールの村の前に。
そして戦闘の最後には、浜に残された戦友たちの遺体の埋葬が。

現在の浜には、こんな戦没者慰霊碑があり、「勇敢な人々」と
呼ばれているそうで。

真ん中のは、「自由の為に立ち上がれ!」
上記した様に、浜のすぐそばには、果てしなく続く白い十字架の列、
1557人の行方不明の兵士を加えた9386人のアメリカ兵士の墓碑が。
1557人の行方不明の兵士を加えた9386人のアメリカ兵士の墓碑が。

観光客のみでなく、退役軍人や犠牲者の家族が愛する人を探して
徘徊し、涙を流し想い出すのは辛くとも、この場所があるからこそ。
徘徊し、涙を流し想い出すのは辛くとも、この場所があるからこそ。
オック岬・Pointe du Hoc 位置地図13

この岬のボコボコに空いた穴は、同盟軍が投下した爆弾跡、なんですと!
6日の深夜、非常に強い風と、視界不良の為にジュノー・ビーチに
パラシュート降下する筈だったカナダのレンジャー部隊の225名が、
パラシュート降下する筈だったカナダのレンジャー部隊の225名が、
誤ってこの地点に降下され、敵の砲撃を受けつつ、
敵の砲撃を受けつつ、高さ30mの崖をよじ登らねばならず、
敵の砲撃を受けつつ、高さ30mの崖をよじ登らねばならず、
兵舎とドイツ軍司令部をなんとか占領した時、生き残ったのは
90人のみだったと。
ゴールド・ビーチ・Gold Beach

写真は ロング・シュル・メールの砲台。 位置地図 15
このドイツ軍砲台は、オマハとゴールドの海岸まで、20km離れた
場所でも攻撃できるよう設計されたドイツ製の大型大砲を
無傷で保存している唯一の砲台。
場所でも攻撃できるよう設計されたドイツ製の大型大砲を
無傷で保存している唯一の砲台。
現在では、戦争に対する無言の警告となり、お天気の良い日には
その巨大なコンクリートの基礎から、バイユーの大聖堂が見えるそう。
その巨大なコンクリートの基礎から、バイユーの大聖堂が見えるそう。
イギリス軍の幾つかの連隊が上陸した海岸ゴールド・ビーチは、
バイユーの町とカーンを結ぶ線を遮断し、バイユーを解放し、
ソード・ビーチに到着のイギリス軍に加わる事だったそうで。
この浜には、下船作業を可能、容易にするために秘密裏に造られた、
一時的な人口港の、マルベリー・ハーバーというのがあり、
現場で沈没した船と、金属ケーソン・なにかと調べましたら、
コンクリート、または鋼製の箱で、地下水などの流入を圧縮空気で
防ぎながら、中で工事できるようにしたもの、と。
その金属ケーソンで作られた、波を打ち破って軍事装備の着陸を
可能にする目的で、
可能にする目的で、
40万台の車両と、300万トンの資材を降ろすのに、15km以上の
桟橋も建設されたのだそうで。
桟橋も建設されたのだそうで。
でこのアイディアは、英国の偉大な政治家ウィンストン・チャーチルの
アイディアからなのですと!
アイディアからなのですと!
勿論、戦後のお話でしょうねぇ。
ジュノー・ビーチ・Juno Beach

この写真の建物は、ジュノー・ビーチ・センター、この海岸にある
唯一のカナダの博物館で、
多くの人にとってはマイナーですが、第2次大戦中のカナダ軍の
役割は基本的な物だったそうで。
ジュノー・ビーチへの上陸作戦に参加したカナダ軍は、
東はサン・トーバン・シュル・メール市、 西はクルル・シュル・
メール市に隣接するベルニエール・シュル・メールの海岸に上陸。
カナダ第3歩兵師団の任務は、カーンとバイユー間の道路を遮断し、
カルピケ飛行場を占領する事で、
カルピケ飛行場を占領する事で、
ジュノーに上陸した23000人のカナダ人、イギリス人の内、1200人近くが
海岸で命を落としたそうで。
海岸で命を落としたそうで。
ソード・ビーチ・Sword Beach

海岸続きの上陸作戦地は一番東に位置するソード・ビーチが最後。
ウイストルアム市とサン・トーバン・シュル・メール市間のこの海域に、
イギリスから到着のイギリス兵と自由フランス軍を含む3万人が上陸。
イギリスから到着のイギリス兵と自由フランス軍を含む3万人が上陸。
他の上陸地点と比べ、ここで亡くなった兵士は僅か700名であり、
他の海岸での死者を考えると成功で、
他の海岸での死者を考えると成功で、
上陸目的は、ジュノー・ビーチ上陸のカナダ部隊との連携にあったそうで。
上陸地の名前などは聞きかじりで覚えているものの、実際の実情は知らず、
オマハ・ビーチの凄さなど、やはりきちんと知って見ると、実感に溢れます。
オマハ・ビーチの凄さなど、やはりきちんと知って見ると、実感に溢れます。
そんな大戦争、大上陸作戦の敢行、成功から80年!
やはり平和の世界、日常は有難く感じ、1年に1度は再度知る事を、と
振り返ってみる事の大事さも、深く感じた事でした。
振り返ってみる事の大事さも、深く感じた事でした。
6月6日の上陸作戦80周年行事の後、浜辺に立つ軍服の人々。

そして暮てゆく、オマハ・ビーチ。

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