・ 大阪 北浜の適塾跡 と 中の島の夜景

大坂での二人展の際のホテル選びをしていた時、早く予約した方が
空きも、値段も良さそうと思い、

条件の合うホテルを地図上で探し、中の島の南側の
相鉄フレッサイン淀屋橋 を見つけ、予約しました。

そしてその後地図上で、友人の言う筆・紙屋の位置を探したり、
中の島美術館などの位置を確かめていた時に、

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えっ、と思ったのが、ホテルから少し南を通る筋に「適塾跡」という文字。
適塾、って、あの緒方洪庵の?! と確かめると、確かに。

上の地図は中の島辺り、淀屋橋の位置も分かる程に、と少し広く
とったので、字が見えにくくなりましたが、ピンクの線に掛かる四角が
ホテルの位置で、
左側の筋の角に赤丸を付けたのが適塾の見える角。



こんな感じの角なのです。 背後にも見える高いビルに囲まれ、
まさにビル街になっているのですが、

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この一郭に残る江戸末期の建物がそうで、左端に見える
赤い円錐コーンが入り口。



角からこんな感じに近づき、こんな感じに通り抜けれる様に。

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ここの管理は、適塾が後の大阪大学の前身となった事から、
現在も大阪大学が管理をされているとの事。



細長く、左の建物と右側の木々、隣の建物との間が通路、
通り抜け道となっており、

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左に見える羽目板風の建物、焼杉かな、と思う壁の建物、
2階建てと。

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それを過ぎた所に、緒方洪庵師の銅像があり、その奥に連なる建物、
その屋根上の洗濯物干し場も、如何にもの生活風景を醸します。

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現在、中の様子などはどの様にしたら拝見できるのか、ダメなのか、
調べておりませんが、

洪庵師の像の少し右の壁に板戸の、多分通用口だったろうと
思われるのが見えるので、
かっては塾の生徒や、御出入り商人達はここから出入りしたのだろうと。


かなり大きな建物類の様ですが、このも少し南には「蔵」も見え、
緒方洪庵師なる人はどんな方だったのか、元々大家の出だったのだろうか、
などとも考え、初めて彼について、適塾についても読んで見ました。

備中国足守藩、山陽道に面した岡山辺りになるのでしょうか、が一時
領土の殆どを陸奥の国、東北の福島、宮城、岩手、そして青森、秋田の
一部に移され、藩庁を足守陣屋、岡山市の足守に置いた、との説明で、

なんとまぁ、当時の藩内の連絡など、どの様に?!と余分な方に驚き!

関ケ原の戦後で、それ以後もあれこれと問題起こった様で・・、
で、足守藩からは幕末に適塾を開いた緒方洪庵が出ている、でお終い!



緒方洪庵師の像 1810-1863

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という事で、1810年生まれの足守藩士、8歳の時に天然痘に。
15歳の時大阪蔵屋敷の留守居役となった父と大阪に出て、
翌年私塾に入門、緒方三平と名乗り、以後は緒方を名字とし、

4年間蘭学、特に医学を学び、1831年江戸に出て学び、
1836年には長崎に遊学し、オランダ人医師ニーマンの下で医学を学び、
このころから洪庵と号を。


1838年大阪に戻り、現大阪市中央区河原町で医業を開業、
同時に蘭学塾(適塾)を開き、同年結婚、後6男7女をもうける。

その後洪庵の名声が高くなり、門下生も日々増え、塾が手狭となり、
北浜の商家を購入し、適塾を移転させたものと。
で、現在残るこの適塾に住まわれ、医業と共に教えていたのですね。


1849年に京都に行き、長崎出島のオランダ人医師モーニッケが
輸入し、京都に伝わっていた痘苗を得、
大坂の現中央区道修町に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による
切痘を始め、

その後、牛になる、等の迷信とも戦い、もぐりの牛痘種痘法者の問題に
対しても、江戸幕府に対し、「除痘館」のみを国家後任の唯一とする様、
関東から九州まで186か所の分苗所を維持しつつ天然痘予防の為に
奔走し、遂に1858年に幕府公認、免許制となったのだそうで。

その後除痘館を適塾南の、現大阪中央区今橋に移転。


武士の子ではあっても、虚弱体質であったようで医師を目指し、
当時使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだそうで、

功績を認められ、幕府の奥医師兼西洋医学初頭取となり、どうやら
心配していた健康を損ない、
1863年に54歳の若さで急死。



適塾からは、福沢諭吉を始め、幕末から明治維新にかけて活躍した
多くの人材を輩出、という、

人柄は温厚で、人を怒った事がない、という方だったそうで、学習態度
には大変厳格ではあったものの、笑顔で教え諭し、逆に塾生を
緊張させたと。


姓名録に残る門下生の数は636名。 上記した様に実子も多く、
その後の経緯を見ると、医学会に広がる素晴らしい家系に驚く程で、

実際に、この適塾跡の細い道を抜けた所には、「緒方クリニック」なる
ビルも見え、医学界に長く広く道を残されている事に驚きでした。



これが表から続いていた屋敷の南端で、蔵も見え、向こうの建物
との間に見える板塀も、多分適塾の部分ではないかと。

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反対側の塀の続きは写真の様に細い路地となり、伝わって行くと、
やはり広い通りに出るのですが、

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奥に見える日本家屋らしきもの、最初の十字の角で見えた通りの
こちらも大きな建物で、なんだろうかと・・。


彼の5男にあたる緒方惟直氏、1853-1878 は、早くから
フランス語を学ばれ、1875年にイタリアに渡り、日本語教師をされ、
フランス語で教えられていたと!

イタリア女性と結婚し、女の子も生まれたものの、かなり生活に困窮、
25歳でヴェネツィアで亡くなっておられ、


かなり以前になりますが、サン・ミケーレ島のお墓参りをした事があり、
その事から「適塾」と知った時にとても驚き、

洪庵師の銅像の前で、「以前御子息の惟直氏のお墓参りを致しました。
次回のチャンスがありましたら、御父上の事をお伝えいたします」と、
礼を正し、申し上げずにはおれませんでした。


・ ヴェネツィア ・ ムラーノ島、サン・ミケーレ島


最後にこの着物姿の方は、福沢諭吉殿。 お札に残る、よく見る姿とは
違っているので、お目にかけますね。

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1862年、幕府の慶応使節団の1人として出かけた時の、
パリのフランス国立自然史博物館で撮影したものだそうで。 27歳。



という所で、画廊への行き帰りに通った中の島の夜の眺めを。

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北側の流れで、奥に見えるのが大江橋、撮っているのは鉾流橋から。
はい、天神祭りの始まりに神鉾を流す、と言う名の由来を思い出しました。

右側に見えるのは、阪神高速。 帰りの関空に向かう時にここを通り、
見下ろした眺めが、本当に美しく、懐かしく思い出されます。



東向き。左側に続くのが、阪神高速で、正面で南向きのカーヴに。

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橋を渡って来ての、中の島の中央公会堂。 素晴らしく美しく重厚な建物!

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中の島の南側。

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そして見える、泊まっていた相鉄フレッサイン・ホテル。 高い黒い
ビルの左側の低い小さなビル、一番上にネオンが見える所に。

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朝食が品数も多く美味しく、泊まってから朝食代込みと知り、イェイ!


栴檀木橋上から淀屋橋に向かい。 なんとまぁ、いつの間に、こんなに高い
大きなビルばっかりになったんだろう?!

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その代わり夜景では見えませんが、並木がある所では物凄い蝉の大合唱!!
本当に驚くほどの力強い蝉の大合唱に、元気だなぁ、もう!!

という、様子でしたぁ。


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