・ フィンツィ・コンティーニの庭園、小説と映画、 そしてフェッラーラの

今回ご覧頂くお話、ネタを何にするか、どの様に展開するか、
本当に迷い、決めかね、あれもこれもと調べ読みました。

というのも、以前13,4年前の2月フェッラーラに確か2泊で出かけ、
あっちこっち見て歩き、その写真をブログに3回ほどアップしたのが、

ブログの引っ越しでさっぱりと消え! いぇ、写真は残っているものの
書いた記事が消えたので、記録庫に残る「フェッラーラ」関係が
消え、はぁ、私めの頭の中の記憶も曖昧至極に・・!

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再挑戦を、と思うままに過ぎており、
先回「ヘルムート・バーガーの追悼」に出た
「フィンツィ・コンティーニの庭園」をどの様に、と決めかね、

漸くに昨夜ベッドの中で、小説と映画に絞り、その関連で
フェッラーラに於けるユダヤ人コミュニティの事を少し、と。

とはいえ、私めも今回このフェッラーラのユダヤ人について初めて
かなり詳細に知った訳で、

中世以降400年に渡ってフェッラーラを統治したエステ家が
例え経済的利点からにせよ、ユダヤ人を保護する方向で働いており、

16世紀末最後のアルフォンソ2世の跡継ぎが無く、エステ家は
エステに移され、その後の教皇領への移譲から、
ユダヤ人に対する危機が始まった、と考えられ、

そしてファッシスト党も最初はムッソリーニが避けていた問題も、
ナチス・ドイツとの連携が強くなり、遂に1937年の「人種法」に基づき
迫害が始まり・・、という事なのでした。


という事で、魅力あるフェッラーラについては次回に、
宜しくお願い致します。

元の小説
フィンツィ・コンティーニの庭園・Il giardino dei Fenzi-Contini

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1962年に出版されたジョルジョ・バッサーニ・Giorgio Bassaniの作で、
私は読んでおらず、映画を見たのみで詳細については読んだままを。

ジョルジョ・バッサーニ 1916-2000
ボローニャ生まれ、ユダヤ家系でフェッラーラで育った作家、詩人、政治家

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1930年代からのイタリアの激動期、ナチス・ドイツとのファッシスト
政権下における「人種法」が、フェッラーラのユダヤ人コミュニティの
家族、若者たち、人々を押しつぶした悲劇的運命を描いたもの。


フェッラーラに於けるユダヤ人コミュニティの歴史
Storia della comunità ebraica di Ferrara

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で知った事は、フェッラーラのユダヤ人コミュニティは恐らく13世紀前半の
記録に登場し、これは土地購入、というので驚いたのでしたが、

以下少し長くなりますが、フェッラーラのちょっと特徴的と思われる
ユダヤ人社会が置かれていた状況、そしてその変化の様子を
知って頂くと、小説、映画内容も納得できると思われるので、
説明させて頂きますね。


15世紀になるとエステ家の下に着実に成長し始め、宗教礼拝の行使と
立法上の自治権も与えられ、
ボルソ・デステ、そしてエルコレ1世とは個人的関係も結ぶほどになり、

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15世紀末にはスペインから排斥されたユダヤ人の受け入れをし、
エルコレ1世は、キリスト教徒患者にも医術実践、薬局経営などの
権利なども譲渡し、
荷物を持ち込み、家族とともに定住する人に対する減税、と!

が一方、カトリック聖職者側からの反対の悪化もあり、ユダヤ人の
銀行活動に反対する目的で、モンテ・ディ・ピエタ・公的質店の誕生が
1507年に。

1534年には他のイベリア移民の定住も認められ、
1541年にはナポリから追放のユダヤ人もフェッラーラは受け入れ、
1550年には、ヴェネツィアから追放の、ポルトガル系「コンヴェルソ・
異端変換者」の受け入れも。

こういう厚遇が変わったのは、最後のエステ家のアルフォンソ2世
教会権力と異端審問の圧力に抵抗できずで、
おまけに後継者が無く、1597年にフェッラーラーは教皇領に。


デルタ・デル・ポー ・ ポー河が海に出あう所
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/463259026.html


1590年の飢餓中での国勢調査によると、市内には2000人の
ユダヤ人と、200人のコンヴェルソがいたそうで。

そしてその後、不動産購入、税金類の管理、家賃の徴収は許可
されずとなり、
男性、女性共に、ユダヤ人が帽子などに黄色、オレンジ色のベールを
標識をつける様定められ、

1626-27年にはゲットーが設立され、つまり他の都市のユダヤ人扱い
と同じ条件となっていたのですね。

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そしてフランス軍、ナポレオンがイタリア国王となっていた1796年には、
「フェッラーラのユダヤ人が、他の国民と同じ権利を享受する」ことを布告、
新たな歴史が始まり、

とはいうものの、なかなかの変遷があり、再度教皇領となったりと
一喜一憂が長く続きますが、

遂にイタリア国家の成立となり、1860年完全な身分開放となります。
フェッラーラのユダヤ人達は、それに応じ愛国心を発揮し報いますが、

1937年には、イタリアにおけるユダヤ人の積極的存在が終焉を迎え、
政府自体がユダヤ人を公職から追放、9月にはすべての公立学校が
ユダヤ人種生徒の入学を禁止、ユダヤ人教師は全員追放に。
次々とこうした布告が続き、

1938年2月政府は「ユダヤ人はイタリア人種ではない」との声明を。

こうしてユダヤ人生徒が公立学校から追放された後、ボランティア教師に
よる私立コースが設立され、
ジョルジョ・バッサーニもボランティア教師となったのだそうで。


緊迫した世情がひしひしと押し迫って来ていたフェッラーラを
舞台に「フィンツィ・コンティーニの庭園」が描かれます。

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で、このフィンツィ・コンティーニ庭園はどこにと言いますと、

地図をどうぞ。

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左下に近い場所に見える城の北から真っすぐ延びるのが
コルソ・エルコレ1世通りで、


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コルソ・ロセッティ・Rossetti、コルソ・ポルタ・マーレ・Porta Mare 
との十字路の左下角にあるのが、パラッツォ・ディアマンテ・Diamante、

壁を一面に覆う四角く尖った壁面が特徴で、

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地方美術館になっていたのかな、内部は知りませんで。



で、その斜め向かいの建物が、地図にはありませんが、映画の中で
フィンツィ・コンティーニ邸があったとされており、

夏の朝、ユダヤ人の若者達が自転車で集まって来て、邸宅、テニス・コート
への門を開けてくれと門番に頼むと、

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コートへの門は、あちらに回って、と言われ、

回るのが、現在の実の公園、地図の十字路の背後に大きく広がる
パルコ・マッサーリ・Massariの入り口。

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が映画の中で、広く美しい庭園を若者たちが自転車で走り、見える邸宅は
ロンバルディーアのブリアンツァ・Brianza、モンザにあるんだそうで!

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また幾つかのシーンはローマの植物園とも。



未だ庭園にいる間は平和な空気で、のんびりと仲間で楽しみつつ、
が、話の中に不安が滲む感じでもあり、

左がヘルムート・バーガーのアルベルトと、大学が一緒だったブルーノ。

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君はまるで外に出る事が無いの? そう、出ない。それに出ても行く所が
無いし、誰かが話すと、軽蔑されているように感じる、というアルベルト。



アルベルトは病弱で、妹のミコール(ドミニク・サンド)と。 

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世情が厳しくなり、図書館でユダヤ人は閲覧できないとジョルジョは締め出しを。

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遂に、戦争が始まる、と走ってくる人々。

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フェッラーラの町を9km以上に渡って囲む城壁内の道を走っていて、
フェンツィ・コンティーニ家への壁を乗り越える近道に気が付くジョルジョ。

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夜中にたまらずに紛れ込んでいくと、庭園の端っこにある東屋で、
彼が愛しているミコールと、ブルーノとの逢引き場面に。



ブルーノとミコールの事はさておき、ブルーノを友人として尊敬している
ジョルジョの、お城の堀端の場面。

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その後ロシアへの派遣軍に加わって出征したブルーノは帰らずのままに。


アルベルトは白血病で亡くなり、ユダヤ人墓地の立派な家族の墓に
葬られますが、

その後一家は全て逮捕され、アウシュヴィッツに送られ戻らぬままとなり、
一家の墓にはアルベルトのみが。


アルベルトは何とかスイスの親戚の家だったかに避難し戦争を逃れ、
10年前一緒に過ごした友人達は皆どこへ?!

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当時を回顧する様子だったかな、で映画は終わります。


小さな画面で見難く、当時の感じもあまり伝わらなかったかもですが、


こんな茶色にくすんだ写真が如何にも、あのフェッラーラの町の、
勿論中心地から北に向かっての、かってのエルコレ1世が改革した
広い丸石舗装の道路、一帯を思い出させます。

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この小説は大ヒットとなり、映画は1970年ヴィットリオ・デ・シーカ
監督によって製作されましたが、

アカデミー賞最優秀外国映画賞を受けました。

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上の地図の、上の右端、赤線の城壁内部に見えるのがユダヤ人墓地で、

大変立派な広いもので、イタリアで3つの内の1つとかで、
現在も使われていると。


このお墓、フィンツィ・マグリーニ・Fenzi Magriniと見えますが、

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このマグリーニ・シルヴィオ・Magrini Silvio、という方が
ジョルジョ・バッサーニがイメージを受け、小説に描いた方だそうで、

ドイツのドルトムンドの東にあるバッド・アロルセン・Bad Arolsen
にあるナチのアーカイブに記録が保管されているのが見つかり、
赤十字がヘッセンの町の学者たちに公開したものだそう。

「父:モゼ。 母:ファウスタ・アルトム。 1881年8月1日、
イタリアのフェッラーラに生まれる。 宗教:ユダヤ教。
ドイツに追放。 プロトコル番号 598504」

この方が、彼の描く物語の家族の長で、ミコールの父、エルマンノ・
フィンツィ-コンティーニの人物像にインスピレーションを与えた男性。

「マグリーニ・シルヴィオ、1943年10月16日に逮捕、12月に
フォッソーリのラガーに到着」と。

フォッソーリの収容所は、アウシュヴィッツに送られる前の
一時収容所として機能したもの。


フェッラーラの素晴らしい庭園は家族のもので、愛想のよい教授は
図書館で何時間もすごした後に、庭に現れた、と。


1942年リンパ肉芽腫で亡くなったアルベルトのみがフェッラーラの
家族の墓に葬られ、

次女のジューリア、父のエルマンノ教授、母親オルガ、そして
オルガの母親、高齢で麻痺のあるレジーナも、
全員1943年秋にドイツに強制送還され・・。

マグリーニ家は、フェッラーラのボルゴ・レオーニ通り76番地に
住み、ユダヤ人コミュニティの主要な核の1つを構成しており、

小説フィンツィ・コンティーニの正確なレプリカとなり、
大きな犬のヨル・Yorも登場しますが、
悲劇的に家族全員が消えたのでした。


バッサーニは小説の骨格に実在人物の一家を当てましたが、
映画に美しく描かれた緑豊かな公園は、フェッラーラではなく、

ラツィオ州セルモネータ・Sermonetaにある、カエターノ家の
ニンファの公園からインスピレーションを受けたのだそうで。

カエターノ家の最後の公爵だったか、音楽家の・・、ファイルが紛れ、
そのイギリス人の妻が雑誌を出版しており、バッサーニはその方に
ニンファの公園の事を聞いたのだそうで。

成程、あの公園も、中世に大いに栄えた街道筋の町だったのが、
疫病と、新しいアッピア街道が出来て大きな廃虚となったのを、
イギリス式庭園に生まれ返させた、という事でしたから、

寂れのイメージがどこか繋がったのかも、と思った事でした。

ニンファの庭園 ・ 中世のポンペイ+イギリス式庭園
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471630054.html

n.2 セルモネータ ・ カエターニの城
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471637108.html


この小説、映画となった作品は、余りにもフェッラーラの町の
描写が的確でイメージがはっきり残り、また当時のイタリアの事情、
ユダヤ人迫害の歴史を語ったものから、

町を訪れ、フィンツィ・コンティーニ邸、また庭園を探す人々が多く、
とりわけ外国人に多く、ははは、shinkaiも地図とサイト記事を
漁りましたものね、

深い郷愁と痛惜さ、というのか、忘れられない想いを運びますが、

そんな愛読者、ファンの方に、ジョルジョ・バッサーニ財団が
アリオストの家・Casa Ariosto」 via Ariosto 67 の1階に
土曜と日曜の朝10時から12時半まで、博物館を公開しているそうで、

金曜午後も16時から18時とありますが、ずっとかどうか分かりません。

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バッサーニの生家は残っているものの、彼は逮捕され、投獄された後
釈放された時に逃亡し、そのままイタリアに戻らずだったそうで、
家はその後売られ、現在は公開されておらで、こういう形で。


日本でも「フィンツィ・コンティーニ家の庭」として、アマゾンのページで
見つけましたが、数が、値段がどの程度か、分かりませんでした。

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かっての自宅を訪問された時の、ジョルジョ・バッサーニの姿を最後に。

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取り組んだ主題が大きすぎ、実際にお伝えしたかったことが上手く
行ったかどうか気になりますが、

フェッラーラの想い出と共に、何とか何とかと辿って見ました。

またいずれ、町の方のご案内も。 有難うございました!


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