皆さまも大変良くご存じと思う、あのヴェルディのオペラの旋律!

「アイーダ」の「凱旋行進曲」 「チェレステ・アイーダ」
「椿姫」の「乾杯の歌」
「ナブッコ」の「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」はイタリア国歌にも
選ばれるか、という程に国民の熱狂を煽った調べ。
他にも様々な、耳にするとすぐ、ヴェルディだ、と分かる親しみやすく
覚えやすい、聞く者の心を、耳をとらえて離さないメロディが思い出され、
多分オペラ・ファンのみならず、世界中にその旋律が
愛されていると思われるジュゼッペ・ヴェルディ・Giuseppe Verdiですが、
今日は彼の生家博物館、田舎の道端に位置する質素な、かっての食堂、
食料品店だった生家と、
後に国民的英雄、オペラ王となった彼の幼少時代についての様子を。
ヴェルディの生家はどこにあるかですが、エミーリア・ロマーニャ州
ピアチェンツァ市ブッセート・Bussetoの近郊ロンコーレ・Roncoleに。


上の地図北上に見えるピッツィゲットーネ・Pizzighettoneのご案内は
戦国明暗二人妃(渡辺一夫) ・ フランソワ1世 ・ ピッツィゲットーネ
クレモーナについては
n.1 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ
n.2 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ
n.1 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装
n.2 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装
生家は既に国の記念物で、単に「ヴェルディの生家・Casa Natale di Verdi」
と地図検索に打ち込むだけで、即出てくれますが、
Via della Processione 1 Roncole Verdi が住所。
道角に位置し、

現在の生家博物館は2014年の修復後に、様々な現代の先進ヴィジュアル技術が
取り入れられ、入り口で希望者にはiPadとイヤホーンが貸与され、
その場所に行くと説明と画像が見れる仕組みに。
この生家博物館見学は、旅行初日の見学3番目で、高速や道路を3時間走り、
要塞見学2つ、主塔にも上った後に到着した所で!
やはりいささか疲れ、頭の方もね、で、周囲の様子も何も撮っておらずで、へへ、
外側はこの1枚だけでしたので、
グーグルのストリート・ヴューから拝借し、
左角に生家博物館、十字交差道を挟んでレストランがあり、
手前に延びる道を入って行くと、大きな駐車場、

道を西に少し進んだ所から、右奥に生家、そしてレストランと駐車場、
この右手前には教会があり、

道の左側には無人のサーヴィス・ステーション、という具合。
で、この家を描いた絵があり、いつの作か分かりませんが、客が訪れている様子から、
ヴェルディが生まれる以前の家の姿と。

屋根の勾配があり、大扉が左に、そして四角い井戸があり、真ん中に入り口扉、
という特徴ある家ですから間違いありませんね。
というのも、ジュゼッペ・ヴェルディが生まれる30年程前に既にこの家が存在し、
1781年、我らが未来の大作曲家の祖父母である、同名のジュゼッペと
フランチェスカが、1階を食堂に、上階を住居にするつもりで借ります。
所が窯は役立たず、床石は崩れ剥げ、驚くほどのゴキブリが潜んでおり!!
多分左に見える大扉は、荷車とか家畜収用の扉で、つまり農家だったのでしょう。
というので、1783年に改装工事が始まります。
祖父のジュゼッペ・アントーニオ(1744-1798)と祖母フランチェスカは
このロンコーレから北西に8km程辺りに住んでおり、ジュゼッペの家は代々商人、
どうやら以前も食堂をしていた様子。
こうして農作も続けながら食堂も繁盛させますが、1798年祖父ジュゼッペが亡くなり、
息子のカルロ・Carlo(1784-1867)が母親を援けつつ跡を継ぎます。
どうやらこの時に貯金していた物と父親からの遺産で、この家を買ったのだろうと。
そして1805年カルロ21歳、若い花嫁ルイージャ・ウッティーニ・Luigia Uttiniを
迎え、一緒に店を切り回すように。
彼女は「糸取り女」、絹の繭から糸を取りだす仕事、と思いますが、
彼女の実家も実は食堂をしていたと言い、しっかり嫁選びをしたのであろうと!
そして1813年10月10日夜8時、若い両親に小さなジュゼッペが生まれ、
という事で、我らの主人公、未来の大作曲家の誕生です。
10月11日の洗礼記録に、「昨日生まれた」とあるそうなのが、当時の日付は
日没で変更されていたそうなので、9日の可能性もあるそうで。
そして3日後父カルロは5km離れた、中心地のブッセートに誕生届を出しますが、
当時ブッセートはパルマ公国を併合したフランス領に組み込まれており、
父親の命名したイタリア名は、ジュゼッペ・フォルトゥーニーノ・フランチェスコ・
ヴェルディ・Giuseppe Fortunino Francesco Verdiですが、
役所ではフランス語名、ジョセフ・フォルテュナン・フランソワ・Joseph Fortunin
François と記録しているそうで・・。
ここで博物館内の様子を少しご覧くださいね。
正面左の大きな扉が入り口となっていて、切符販売とブック・ショップで、
その隣の薄暗い部屋は、こんな大樽が貯蔵されている納屋、というか、カンティーナで、
子供がちょっと指を突っ込み、という影絵が出ますが、ワイン樽ではね。

そしてその隣の部屋には、こんな調度が残されており、何の部屋かなと思ったものの、


博物館のサイトの写真で、そうか、塩の専売や、食料品を売っていた場所ねと納得。

そしてもう1枚、これも博物館のサイトから、まず部屋の全体をご覧いただく
食堂、飲み屋の部分を。

大きな暖炉があり、長めのテーブル、椅子。



食事用の皿、ワイン瓶、パン、そして奥に壁に彫り込まれた棚。


窓際に小さく切り込まれた窪みは、下に小さな火を入れ、上に鉄格子を載せ、
ちょっと肉を焙ったり、温めたりしたのかも、と。

ここも今の様子では、当時の使われ方が分かりませんが、様々だったでしょう。

ここは隣の部屋との境の通路脇にあった流し台、下に水の入った桶が置かれたと。


2階への階段下の隙間利用で、様々な用途があったでしょうね。

家全体の背面図が見つからずですが、今手前左に見えるのが2階への階段で、
正面がきっとかっての家、食堂部への入り口だった、家の真ん中の扉と。

父親カルロは、当時としては珍しく読み書きができ、家博物館には勘定書きなども
残されており、食堂のみでなく、塩や一般の食糧販売も、そして郵便取り扱い等も
行う働き者で、
生まれて来た「小さなジュゼッペ」も利発で、父親の仕事を良く手伝う少年だったと。
彼の後に妹ジュゼッパ・Giuseppaが生まれますが、髄膜炎の為大変若い時から
衰弱しており、1833年17歳で亡くなります。
ジュゼッペは4歳から、村の先生であり、教会のオルガン弾きでもあった
ピエトロ・バイストロッキ・Pietro Baistrocchiにつき、個人教授で
ラテン語とイタリア語のレッスンを受けます。
確かな事は分かっておりませんが、多分このバイストロッキ先生が父親に助言し、
ジュゼッペに音楽の勉強を始める様にさせた可能性が強いとか。
6歳になると彼は土地の学校に通いつつ、バイストロッキからオルガンの
レッスンを受けますが、彼の音楽に対する興味は両親にも明らかで、
近くのマドンナ・デイ・プラティの礼拝堂の長であるドン・パオロ・コスタから
スピネッタ・Spinetta、クラヴィチェンバロの様な楽器、を買い与えます。
これが2階の部屋にあった、スピネッタの模型。

ジュゼッペの生い立ちについて書いているのを読んでいて、
有難い事に、彼の両親が無知無毛の農民ではなく、小さくとも土地持ちの
商人であった、とあり、
両親共に彼の才能を感じ取り、何とか一門の者に、と熱望応援したのが
よく分かります。
余りにも熱心にスピネッタを弾き続けるジュゼッペで、遂に修繕の為に職人が
呼ばれ、修繕の後彼が弾くのを聴き、彼は支払いを要求しなかったという逸話も。
ヴェルディの卓越した作曲の才能は、勿論彼自身の勉学により育成されたものの、
息子の優秀さを感じた父親の大きなサポートもあり、
バイストロッキ先生からも愛され、無料でオルガンとピアノの実践レッスンを。
そしてバイストロッキ先生が亡くなった後、ジュゼッペはわずか8歳で、
彼の後を継ぎ、支払いを受けるオルガニストとなります。
後年、ブッセートの裕福な大商人であり、音楽愛好家で、自身も土地の
「音楽愛好家協会」長をしていたアントーニオ・バレッツィ・Antonio Barezziも、
彼の才能を信頼するのを疑わず、彼のパトロンとなり、勉学を続ける為に
様々な支援を与えるようになります。
ジュゼッペ自身は大人の間では、自分の希望を隠し勝ちだったものの、こうした
世間の評判、そして何よりも父親の強い野心に押され、進みます。
ここで生家博物館の2階の様子をどうぞ。
2階への階段。

2階の屋根裏部屋。 太い梁がそのまま見え、

階段からも見えた屋根の瓦葺きの様子は、こんな風に見え、

ええと、いかにも隙間だらけに見えるのですが、半円形の瓦を下に並べ、
その上から逆に被せていくので、余程の横殴りの雨でない限り吹き込まないそう!
というのは、その日ロッカビアンカの城で見た、屋根裏のバルサミコ酢の
醸造場の屋根がこんな形で、吹き込まない、というのを教えて貰ったのですが、
バルサミコ酢は、夏、冬の温度差がそのまま届くのを狙っている訳で、はぁ、
このままだと人間様には暑さ、寒さが厳しいだろうなぁ、と。
住居ではなく、博物館だからこれでOK、というのでその儘置いているのかも!
ですが、細い受け材も今にも折れそう!
壁の下に置かれた小さい机に置かれたノート。 手書きの、父親カルロの
物だったと読んだ記憶が。

かっての見学者、ヴェルディの足跡の巡礼者、達の献呈碑の様。

ここが両親たちの寝室。 つまりジュゼッペ・ヴェルディはここで誕生、と。

この窓からは下の、現在の入り口部が見え、この右横に楽器スピネッタが置かれ。

窓から覗いた東裏側の、レストランの建物。 暑い日でしたので、
庇下に設置された2か所だったかの霧噴霧器から、シューシューと霧が吹き出し。

少し上からの、建物の全体の形。 これで、正面から見る印象よりも、
奥が深いのが分かりますね。

多分一番最初の建物は、正面の井戸の所迄、屋根の勾配がちょうど同じ長さ迄で、
左側に増築された形であるのは、壁の色がうっすらと違うので分かりますね。
1823年10歳のジュゼッペは、両親が登録したブッセートの上級学校に進み、
イタリア語、ラテン語、人文科学、修辞学を学び、
規則的に、日曜にも5kmほどの距離を戻り、教会のオルガンを弾いたそう。
続く年にもさまざまな学問、そして作曲法の初歩、様々な楽器の実践も受け、
1827年に上級学校を卒業、音楽のみの勉学を続けられるようになりますが、
13歳の彼を指導していたプロヴェージ・Provesi・礼拝堂のマエストロが、
音楽家の代理を頼み、これが彼の生地での最初の演奏お披露目となり、
大きな成功を。
1829年末にはプロヴェージの授業を、既に教えることは何もない、
との言葉で終了し、
こうしてヴェルディはブッサートのパトロン、バラッツィの家に引っ越し、
こちらが彼のパトロンになった、アントーニオ・バラッツィ氏の肖像で、

ブッサートの中心にあるバラッツィ邸。 現在はヴェルディ博物館に。

豪邸!

バラッツィ邸のサイトは https://www.parmawelcome.it/it/scheda/esplora-il-territorio/musei-e-luoghi-di-interesse/musei/casa-barezzi/
Via Roma 119 Busseto 見学もできる様子。
彼の娘マルゲリータ・Margheritaに歌とピアノのレッスンを施すようになり、
こちらがマルゲリータ・バラッツィ像。

彼女とは、ジュゼッペが同居し、2年ほどレッスンを重ねる内恋仲となり、
1836年に2人は結婚します。
子供も2人生まれますが、どちらも幼くして亡くなり、最後はマルゲリータ
自身も脳炎にて死去という、わずか4年ほどの結婚生活に終わります。
その間にもミラノの音楽学校を目指すなど、この道は結局閉ざされたものの、
作曲家としての道が徐々に開け、ミラノでの芸術的刺激多い生活を
味わった彼はもう留まることが出来ず、
こうして少しづつ生地ロンコーレから、そしてブッセートからも遠ざかり、
晩年にはすぐ近くのサンターガタ・Sant’Agataに自分の農場を持ったり、
生活もしますが、
オペラ作家として大きく世界に羽ばたき、飛び出したジュゼッペ・ヴェルディ、

その一番の基礎にあった、ヴェルディの生家博物館ご案内でした。
*****
当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!

*****
色鉛筆+水彩画ブログには、
をアップしています。 ご訪問よろしくどうぞ!
*****
今後ともの皆様のご訪問を、お待ち致しておりま~す!
*****
コメントの書き込みについてのお願い。
ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。