・ ジュゼッペ・ヴェルディ  19世紀の大作曲家・オペラ王 の生家訪問

皆さまも大変良くご存じと思う、あのヴェルディのオペラの旋律!

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椿姫」の「乾杯の歌」
ナブッコ」の「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」はイタリア国歌にも
選ばれるか、という程に国民の熱狂を煽った調べ。

他にも様々な、耳にするとすぐ、ヴェルディだ、と分かる親しみやすく
覚えやすい、聞く者の心を、耳をとらえて離さないメロディが思い出され、

多分オペラ・ファンのみならず、世界中にその旋律が
愛されていると思われるジュゼッペ・ヴェルディ・Giuseppe Verdiですが、

今日は彼の生家博物館、田舎の道端に位置する質素な、かっての食堂、
食料品店だった生家と、
後に国民的英雄、オペラ王となった彼の幼少時代についての様子を。



ヴェルディの生家はどこにあるかですが、エミーリア・ロマーニャ州
ピアチェンツァ市ブッセート・Bussetoの近郊ロンコーレ・Roncoleに。

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上の地図北上に見えるピッツィゲットーネ・Pizzighettoneのご案内は
戦国明暗二人妃(渡辺一夫) ・ フランソワ1世 ・ ピッツィゲットーネ

クレモーナについては
n.1 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ 

n.2 ヴァイオリン博物館・クレモーナと、ヴァイオリン、ストラディヴァリあれこれ 

n.1 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装 

n.2 クレモーナの聖堂と鐘楼と洗礼堂 ・ 中世の典雅さと時代毎の改装  



生家は既に国の記念物で、単に「ヴェルディの生家・Casa Natale di Verdi」
と地図検索に打ち込むだけで、即出てくれますが、
Via della Processione 1 Roncole Verdi が住所。

道角に位置し、

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現在の生家博物館は2014年の修復後に、様々な現代の先進ヴィジュアル技術が
取り入れられ、入り口で希望者にはiPadとイヤホーンが貸与され、
その場所に行くと説明と画像が見れる仕組みに。

この生家博物館見学は、旅行初日の見学3番目で、高速や道路を3時間走り、
要塞見学2つ、主塔にも上った後に到着した所で!
やはりいささか疲れ、頭の方もね、で、周囲の様子も何も撮っておらずで、へへ、
外側はこの1枚だけでしたので、



グーグルのストリート・ヴューから拝借し、
左角に生家博物館、十字交差道を挟んでレストランがあり、
手前に延びる道を入って行くと、大きな駐車場、

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道を西に少し進んだ所から、右奥に生家、そしてレストランと駐車場、
この右手前には教会があり、

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道の左側には無人のサーヴィス・ステーション、という具合。



で、この家を描いた絵があり、いつの作か分かりませんが、客が訪れている様子から、
ヴェルディが生まれる以前の家の姿と。

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屋根の勾配があり、大扉が左に、そして四角い井戸があり、真ん中に入り口扉、
という特徴ある家ですから間違いありませんね。

というのも、ジュゼッペ・ヴェルディが生まれる30年程前に既にこの家が存在し、
1781年、我らが未来の大作曲家の祖父母である、同名のジュゼッペと
フランチェスカが、1階を食堂に、上階を住居にするつもりで借ります。

所が窯は役立たず、床石は崩れ剥げ、驚くほどのゴキブリが潜んでおり!!
多分左に見える大扉は、荷車とか家畜収用の扉で、つまり農家だったのでしょう。

というので、1783年に改装工事が始まります。


祖父のジュゼッペ・アントーニオ(1744-1798)と祖母フランチェスカは
このロンコーレから北西に8km程辺りに住んでおり、ジュゼッペの家は代々商人、
どうやら以前も食堂をしていた様子。

こうして農作も続けながら食堂も繁盛させますが、1798年祖父ジュゼッペが亡くなり、
息子のカルロ・Carlo(1784-1867)が母親を援けつつ跡を継ぎます。

どうやらこの時に貯金していた物と父親からの遺産で、この家を買ったのだろうと。


そして1805年カルロ21歳、若い花嫁ルイージャ・ウッティーニ・Luigia Uttiniを
迎え、一緒に店を切り回すように。

彼女は「糸取り女」、絹の繭から糸を取りだす仕事、と思いますが、
彼女の実家も実は食堂をしていたと言い、しっかり嫁選びをしたのであろうと!


そして1813年10月10日夜8時、若い両親に小さなジュゼッペが生まれ、
という事で、我らの主人公、未来の大作曲家の誕生です。

10月11日の洗礼記録に、「昨日生まれた」とあるそうなのが、当時の日付は
日没で変更されていたそうなので、9日の可能性もあるそうで。

そして3日後父カルロは5km離れた、中心地のブッセートに誕生届を出しますが、
当時ブッセートはパルマ公国を併合したフランス領に組み込まれており、

父親の命名したイタリア名は、ジュゼッペ・フォルトゥーニーノ・フランチェスコ・
ヴェルディ・Giuseppe Fortunino Francesco Verdiですが、

役所ではフランス語名、ジョセフ・フォルテュナン・フランソワ・Joseph Fortunin 
François と記録しているそうで・・。 



ここで博物館内の様子を少しご覧くださいね。

正面左の大きな扉が入り口となっていて、切符販売とブック・ショップで、

その隣の薄暗い部屋は、こんな大樽が貯蔵されている納屋、というか、カンティーナで、
子供がちょっと指を突っ込み、という影絵が出ますが、ワイン樽ではね。

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そしてその隣の部屋には、こんな調度が残されており、何の部屋かなと思ったものの、

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博物館のサイトの写真で、そうか、塩の専売や、食料品を売っていた場所ねと納得。

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そしてもう1枚、これも博物館のサイトから、まず部屋の全体をご覧いただく
食堂、飲み屋の部分を。

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大きな暖炉があり、長めのテーブル、椅子。

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食事用の皿、ワイン瓶、パン、そして奥に壁に彫り込まれた棚。

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窓際に小さく切り込まれた窪みは、下に小さな火を入れ、上に鉄格子を載せ、
ちょっと肉を焙ったり、温めたりしたのかも、と。

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ここも今の様子では、当時の使われ方が分かりませんが、様々だったでしょう。

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ここは隣の部屋との境の通路脇にあった流し台、下に水の入った桶が置かれたと。

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2階への階段下の隙間利用で、様々な用途があったでしょうね。

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家全体の背面図が見つからずですが、今手前左に見えるのが2階への階段で、
正面がきっとかっての家、食堂部への入り口だった、家の真ん中の扉と。

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父親カルロは、当時としては珍しく読み書きができ、家博物館には勘定書きなども
残されており、食堂のみでなく、塩や一般の食糧販売も、そして郵便取り扱い等も
行う働き者で、

生まれて来た「小さなジュゼッペ」も利発で、父親の仕事を良く手伝う少年だったと。

彼の後に妹ジュゼッパ・Giuseppaが生まれますが、髄膜炎の為大変若い時から
衰弱しており、1833年17歳で亡くなります。


ジュゼッペは4歳から、村の先生であり、教会のオルガン弾きでもあった
ピエトロ・バイストロッキ・Pietro Baistrocchiにつき、個人教授で
ラテン語とイタリア語のレッスンを受けます。

確かな事は分かっておりませんが、多分このバイストロッキ先生が父親に助言し、
ジュゼッペに音楽の勉強を始める様にさせた可能性が強いとか。

6歳になると彼は土地の学校に通いつつ、バイストロッキからオルガンの
レッスンを受けますが、彼の音楽に対する興味は両親にも明らかで、

近くのマドンナ・デイ・プラティの礼拝堂の長であるドン・パオロ・コスタから
スピネッタ・Spinetta、クラヴィチェンバロの様な楽器、を買い与えます。


これが2階の部屋にあった、スピネッタの模型。

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ジュゼッペの生い立ちについて書いているのを読んでいて、
  有難い事に、彼の両親が無知無毛の農民ではなく、小さくとも土地持ちの
  商人であった、とあり、
両親共に彼の才能を感じ取り、何とか一門の者に、と熱望応援したのが
よく分かります。

余りにも熱心にスピネッタを弾き続けるジュゼッペで、遂に修繕の為に職人が
呼ばれ、修繕の後彼が弾くのを聴き、彼は支払いを要求しなかったという逸話も。


ヴェルディの卓越した作曲の才能は、勿論彼自身の勉学により育成されたものの、
息子の優秀さを感じた父親の大きなサポートもあり、
バイストロッキ先生からも愛され、無料でオルガンとピアノの実践レッスンを。

そしてバイストロッキ先生が亡くなった後、ジュゼッペはわずか8歳で、
彼の後を継ぎ、支払いを受けるオルガニストとなります。

後年、ブッセートの裕福な大商人であり、音楽愛好家で、自身も土地の
「音楽愛好家協会」長をしていたアントーニオ・バレッツィ・Antonio Barezziも、

彼の才能を信頼するのを疑わず、彼のパトロンとなり、勉学を続ける為に
様々な支援を与えるようになります。

ジュゼッペ自身は大人の間では、自分の希望を隠し勝ちだったものの、こうした
世間の評判、そして何よりも父親の強い野心に押され、進みます。



ここで生家博物館の2階の様子をどうぞ。
2階への階段。

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2階の屋根裏部屋。 太い梁がそのまま見え、

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階段からも見えた屋根の瓦葺きの様子は、こんな風に見え、

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ええと、いかにも隙間だらけに見えるのですが、半円形の瓦を下に並べ、
その上から逆に被せていくので、余程の横殴りの雨でない限り吹き込まないそう!


というのは、その日ロッカビアンカの城で見た、屋根裏のバルサミコ酢の
醸造場の屋根がこんな形で、吹き込まない、というのを教えて貰ったのですが、

バルサミコ酢は、夏、冬の温度差がそのまま届くのを狙っている訳で、はぁ、
このままだと人間様には暑さ、寒さが厳しいだろうなぁ、と。

住居ではなく、博物館だからこれでOK、というのでその儘置いているのかも!
ですが、細い受け材も今にも折れそう!



壁の下に置かれた小さい机に置かれたノート。 手書きの、父親カルロの
物だったと読んだ記憶が。

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かっての見学者、ヴェルディの足跡の巡礼者、達の献呈碑の様。

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ここが両親たちの寝室。 つまりジュゼッペ・ヴェルディはここで誕生、と。

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この窓からは下の、現在の入り口部が見え、この右横に楽器スピネッタが置かれ。

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窓から覗いた東裏側の、レストランの建物。 暑い日でしたので、
庇下に設置された2か所だったかの霧噴霧器から、シューシューと霧が吹き出し。

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少し上からの、建物の全体の形。 これで、正面から見る印象よりも、
奥が深いのが分かりますね。

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多分一番最初の建物は、正面の井戸の所迄、屋根の勾配がちょうど同じ長さ迄で、
左側に増築された形であるのは、壁の色がうっすらと違うので分かりますね。




1823年10歳のジュゼッペは、両親が登録したブッセートの上級学校に進み、
イタリア語、ラテン語、人文科学、修辞学を学び、

規則的に、日曜にも5kmほどの距離を戻り、教会のオルガンを弾いたそう。

続く年にもさまざまな学問、そして作曲法の初歩、様々な楽器の実践も受け、

1827年に上級学校を卒業、音楽のみの勉学を続けられるようになりますが、

13歳の彼を指導していたプロヴェージ・Provesi・礼拝堂のマエストロが、
音楽家の代理を頼み、これが彼の生地での最初の演奏お披露目となり、
大きな成功を。


1829年末にはプロヴェージの授業を、既に教えることは何もない、
との言葉で終了し、

こうしてヴェルディはブッサートのパトロン、バラッツィの家に引っ越し、
こちらが彼のパトロンになった、アントーニオ・バラッツィ氏の肖像で、

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ブッサートの中心にあるバラッツィ邸。 現在はヴェルディ博物館に。

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豪邸!

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Via Roma 119 Busseto 見学もできる様子。



彼の娘マルゲリータ・Margheritaに歌とピアノのレッスンを施すようになり、
こちらがマルゲリータ・バラッツィ像。

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彼女とは、ジュゼッペが同居し、2年ほどレッスンを重ねる内恋仲となり、
1836年に2人は結婚します。

子供も2人生まれますが、どちらも幼くして亡くなり、最後はマルゲリータ
自身も脳炎にて死去という、わずか4年ほどの結婚生活に終わります。



その間にもミラノの音楽学校を目指すなど、この道は結局閉ざされたものの、
作曲家としての道が徐々に開け、ミラノでの芸術的刺激多い生活を
味わった彼はもう留まることが出来ず、

こうして少しづつ生地ロンコーレから、そしてブッセートからも遠ざかり、
晩年にはすぐ近くのサンターガタ・Sant’Agataに自分の農場を持ったり、
生活もしますが、


オペラ作家として大きく世界に羽ばたき、飛び出したジュゼッペ・ヴェルディ、

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その一番の基礎にあった、ヴェルディの生家博物館ご案内でした。


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