・ 155年前 フィレンツェがイタリアの首都だった時  周辺事情あれこれ

フィレンツェがイタリアの首都だった19世紀末、正確には1865年から
1871年のわずか6年間でしたが、

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それまではイタリアは各地方それぞれに分かれ、領主、と言っても教皇領の
一部を預かる領主の下にあったり、またヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国とか、
教皇との関係をうまく取りつつの自国領という形で存在し、
「イタリア国」全体は未だ無かったのですね。

そしてイタリア統一の機運が高まり、運動が進み、1861年3月17日に
国王ヴィットリオ・エメヌエレ2世の元、イタリア王国が成立し、

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1865年2月3日トリノからフィレンツェに首都が移ります。

さて、フィレンツェに首都が移り、国王はどこにお住まいを定めたか?
はい、パラッツォ・ピッティ・Palazzo Pittiに。

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これは大きさ、メディチ家の住まいであった事から言っても妥当で、納得ですね。

今回の記事資料は、Firenze capitale, 150 anni fa. Dove abitava il re?
国王の愛人ローザについてはこれに名が出て来たので、調べたのでしたぁ。



国王ヴィットリオ・エマヌエレ2世・Vittorio Emanuele II(1820-1878)は、
サルデーニャ王国の王に1849年から、そしてイタリア王国の成立により
1861年からイタリア国王になった所で、フィレンツェ遷都当時45歳。
上の写真は1861年国王になった時のものと。

彼は1842年従妹に当たる信心深いマリーア・アデライデ・ダウストリア・
Maria Adelaide d'Austria(1822-1855) 実際の名はも~~~っと長く、
と結婚します。 マリーアは当時20歳。

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彼女は誠実な愛を夫に捧げますが、夫は婚姻外の関係多数!
そしてイタリア王国が成立する数年前に、女王となる事無く亡くなります。
2人の婚姻から8人の子が生まれ、長男ウンベルト・Umberto、1844年生まれ
が第2代のイタリア国王に。



で、1847年彼がまだ単純にサヴォイア家の跡継ぎだった27歳の時に、

5-Perrin_F._-_Vittorio_Emanuele_II_-_litografia_-_1851.jpg

この肖像は1851年で、



ベーラ・ロジン・bela Rosinと庶民に親しまれ、歌われたローザ・ヴェルチェッラーナ・
Rosa Vercellana(1833-1885)に出合い、14歳の彼女に一目惚れを!

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イタリア語では一目惚れを「稲妻に打たれた」と表現しますが、はは、

ローザの父親は、ヴィットリオ・エマヌエレ2世の父親カルロ・アルベルト、
サルデーニャ王国王に仕える兵士、どうやら軍楽隊の指揮を務めたりの守備隊員で、
家族共に勤務先に居り、
ちょうどローザがテラスに出てきた所を見かけ、稲妻に打たれたと。

貴族出身ではなく、おまけに16歳以下の女子を家族から引き離し連れ去る、
というのは王国の法律違反で、はは、国王も反対したものの止まらず。

彼女の他にロマンスもあったものの、常に王宮の近くに住まわされていた
彼女の元に戻り、
正妻が亡くなった後も、他の女性と結婚する事なく、生涯連れ添います。



で、フィレンツェに首都が移り、国王はピッティ宮にお住まいとなりましたが、
裏の門から抜け出し、トリノから先に移っていたローザの下にお通いに。

彼女はメディチ家のヴィッラ・ラ・ペトライア・Villa La Petraiaに住んでおり、

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8-villa petraia.jpg

物好きshinkaiは、ピッティ宮からの距離を調べましたら約10Kmで、
車で30分程と出ましたので、馬車だったら1時間位掛かったかな、と。ははは。



現在はこのヴィッラ・ペトライアは博物館になっていて、内部が見物出来、
元は内庭風だったのでしょうが、天井部が覆われ大広間に。 素敵でしょう?!

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そしてお部屋と、ご寝所。

10-villa-medicea-di-petraia-frankenstein-photo-stefano-casati-.jpg

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ローザはどうやら当時の国民の90%がそうだったように、読み書きができず、
勿論国王の愛人となって後は学習したでしょうが、
時に他の愛人が現れても常に彼女に添い遂げた国王で、

1869年に病気を得た国王は死ぬかもしれないと恐れ、彼女とモルガン婚をします。
ええと、モルガン婚というのは、結婚しても決して女王にはなれず、生まれていた
2人の子も後継ぎとなれずという、いわば一代限りの結婚とでも、で、

後1877年10月7日ローマで市民婚、教会ではなく市役所での結婚もし、
3か月後の1878年1月9日ヴィットリオ・エマヌエレ2世国王は亡くなります。

が、当時ピサ市民であったローザは、国王の死後の書類では「独身」と
なっていたそうで。

という様な、初代イタリア国王の生涯をかけてのロマンス、そして常に影の女
として過ごした愛人ローザ、のお話でしたぁ。



で、急ごしらえの首都に移ったイタリア王国の首脳部でしたが、
パラッツォ・メディチ・リッカルディ宮は首相と内務省とが使い、

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ここは現在、博物館であり、県議会が使っていて、



ヴェッキオ宮の500人広間が下院議会場となり、外務省も。

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上院議会場は最初ヴェッキオ宮の200人広間で、ついでウッフィッツィ宮の旧劇場に。

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という様に他にもあそこ此処と出て来ましたが、何となく火事で焼け出され
大急ぎで仮住まいに引っ越した様で、はは、バタバタと大変だったんだろうなぁ、
という感慨を持ちましたが、

やはり中世からルネッサンス期にかけての都で、要するにピッティ宮とヴェッキオ宮が
政治中枢の場の役割を持つだけの土地に、一国の政府が収まるには小さく狭すぎ、
6年後にローマに移った時は、政府関係者は皆やれやれと思ったのではないかと。


ローマのこのパラッツォ・クイリナーレ宮・Palazzo Quirinaleは16世紀後半の建設で、

15-Quirinale_palazzo_e_obelisco_con_dioscuri_Roma.jpg

元々は教皇様の夏の別荘として造られ、グレゴーリオ13世からピオ9世までの
30代に渡る教皇の住居として使われましたが、

1870年からはイタリア国王の正式な住居として、1946年以降は
イタリア大統領の居住地として用いられている歴史的な建物。



内部にはこんな伊達政宗による慶長遣欧使節の支倉常長、前列左、の
描かれた壁画のある部屋もあるそうで。

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上から部屋の中を覗き込む形であるとはいえ、支倉常長が教皇住居を
こんな風に頬杖ついて覗き込む、とは考えられませんがぁ、どう思われます?
イタリア風描写でしょうねぇ。



ついでにおまけというか、先回最後に書きましたフィレンツェの大聖堂、
サンタ・マリーア・デル・フィオーレ・花のサンタ・マリーア大聖堂の正面壁、
白とピンクと濃い緑の美しい、如何にもルネッサンスの美と思える
美しいファッチャータは、

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19世紀の末、1887年に漸くに出来上がったもの、とご存知でした?!


花のサンタ・マリーア大聖堂 ・ フィレンツェ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466186883.html



shinkaiも知ったのはそう昔ではなく、はい、はは、驚いたのでしたが、
かってはこんな姿で、そう、煉瓦で出来たままの正面姿で何世紀間も経たのでした。

18-facciata.jpg

ルネッサンス期の16世紀トスカーナ大公のコジモ1世の時代から、トリノから
フィレンツェに首都を移した19世紀末のヴィットリオ・エマヌエレ2世国王も、
この姿を見た訳で!

フィレンツェ人の間では、長引き、終わりが見えないものの例えに、
「まるでドゥオーモの工事の様」という比喩があるそう!

14世紀のジオット、ドナテッロ、アルノルフォ・デル・カンビオの偉人達の手を経て、
ロレンツォ・イル・マニフィコも乗り出したものの、途中でまるで出来が気に入らずで
投げ出し、はは、可笑しいでしょ?

1545年ロレンツォ・イル・マニーフィコの息子である教皇レオーネ10世が
フィレンツェに寄られる機会にサンソヴィーノ、アンドレア・デル・サルトが
間に合わせに、木製で何か装飾したそうですが、それも50年間ほどの後は皆ダメに。

そしてトスカーナ大公コジモ1世の時に、残っていたドナテッロとアルノルフォの像を
取り払い、当初の残るものは何もなしに!

そしてコジモ1世の息子、枢機卿になっていたのが兄の跡継ぎフランチェスコが亡くなり、
還俗したフェルディナンド1世がトスカーナ大公となり、ロレーナ家のクリスティーナとの
世紀の結婚式の際にどうしたか?!

布に描いたファッチャータ飾りが取り付けられ、これを口の悪いフィレンツェ人たちは
「un vero troiaio」と。 
これは多分「布」か、「織機」を現す言葉とを引っ掛けているのだろうと思いますが、
「本物の雌犬だ」という悪口を! 失礼。 で、これも50年間でアウトに。

そして17世紀末、遂に半ばヤケ気味に、真っ白に全部塗ったのだそうで!
はは、これも勿論「rizzati」という悪口に。 はは、意はちょっと書けませぇん。

で1868年遂に何度かのコンクールの結果、デ・ファブリス・De Fabrisの案が
採用になりますが、首都がローマに移る様になり、工事が延期される間に
デ・ファブリスはお亡くなりに。

そして1883年に住民投票となり、工事に掛かることを決め、
遂に1887年5月に工事終了の落成式!! おめでとうございま~す!

序に洗礼堂周囲の家並の取り壊し、広場拡張も行われ、現在の姿に。

こうして20世紀の夜明けと共に、フィレンツェの街は後進性から抜け出したものの、
たくさんの痛い思い、残念な思いも残した、多くの解体もあった訳で。



そうですね、フィレンツェの街は歩いて回れる大きさ、人間の大きさに合った街で、
それが訪問しての快さでもある訳ですが、逆に今考えると、

19-gettyimages_464401123.jpg

首都が直ぐにローマに移ってくれたからこそ、あの程度の解体で済んだわけで、
現在の我々には良かったぁ! という事なのかも、ですね。

という様な、19世紀末のフィレンツェのあれこれ、でした。


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