・ リッポ・メンミ、 メンモ・フィリップッチョ、そして シモーネ・マルティーニ

今回はタイトルが殆んどカタカナで、読みにくかったですか?!

はい、でも文中では多分大丈夫です、というのも、
shinkaiが先にこんがらかったので、ははは、分かりやすく書く様
気をつけますので。

暫く前にご案内の、シエナのサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂の
記事の中でご案内した、この聖母子の絵・リッポ・メンモ画を

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おおトチリで、へへ、彼はシモーネ・マルティーニのお舅、と書き、
即訂正に行ったのでしたが、

シエナ  サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ聖堂と、パリオのお話
https://www.italiashiho.site/article/497600507.html


その後あれこれ読む内に、上に並べた3名の関係を知り、
つまり、リッポ・メンミ・Lippo Memmi(1290年代-1344)は、

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メンモ・ディ・フィリップッチョ・Memmo di Filippuccio
(1250頃-1325頃)の息子。

彼の顔、が見つからずで、1305~10頃作とされる、
サン・ジミニャーノに残る「聖母子像」を。

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今回は、中世の塔の町・サン・ジミニャーノに残る、彼の作品に
焦点を当ててのご紹介で、はい、何が出ますか、お楽しみに!



一方、シモーネ・マルティーニ・Simone Martini(1284-1344)は、

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メンモ・フィリップッチョから1324年1月~2月に20フローリンで家を買い、
同時に彼の娘のジョヴァンナと結婚した、という記録があり、
年齢から考え、多分リッポの妹と。

で計算すると、シモーネは40歳前後となり、それ以前は?と
勘ぐりたくなるのですけど、へへ、どこにも出ませんで。


と、メンモ家の、親子の姓が一致しないのに最初戸惑ったのですが、
そうか、まだ親の姓を継ぐという時代、家柄、身分ではなく、

息子の名 + 父親の名 という様に名乗り、それで世間が了承、
という事だったのだと納得を。


メンモ・ディ・フィリップッチョはシエナの生まれ、
ドゥッチョ・ボニンセーニャ・Duccio di Boninsegna(1255頃-1318,19)
シエナ派最初の巨匠、に教えを受けた様子。

その後アッシジ聖堂下院の絵の建設現場で働き、ジョットの仕事振りに
大きな影響を受け、そうした話がトスカーナ一帯の画家に伝わったと。

この逸話は、ジョットの凄さに驚いた画家たちが語り伝え、という様子が
目に見える様で、読む方もワクワクと。

ただこれはサン・フランチェスコ聖堂下院のフレスコ画製作現場の話で、
上院のフレスコ画ではありませんで。

確かにあの下院に残るフレスコ画は、当時の有名画家たちが集められ、
その画家達の集中した密度が、今も残る素晴らしい空間で。

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聖堂上院の壁画について n.2 サン・フランチェスコ聖堂 ・ アッシジ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465045439.html


その後トスカーナに戻り、サン・ジミニャーノで工房を持ち盛んに
活動を始め、最初に記録に残るのは、1305年のコレッジャータ
(サン・ジミニャーノのドゥオーモとも)の正面壁内側のフレスコ画。

写真は聖堂内の様子。

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この仕事ではまだ未成年のリッポ・メンミも一緒に働いていたのが、
きちんと支払いを受けている、という記録が残っており、
既に一人前の素晴らしい腕を持っていた、という事も分かります。

シモーネ・マルティーニとの繋がりは、彼がサン・ジミニャーノで
1310年頃にサン・ロレンツォ・アル・ポンテ教会で、
現在は頭のみが残るマドンナを描いた時に出会ったのであろうと。

そして1312年から15年にシエナのプッブリコ宮でのシモーネの
「マエスタ」の制作で、リッポの助手としての協力に繋がります。


シモーネ・マルティーニのシエナのプッブリコ宮の「マエスタ・Maestà」
については、次回に新しい発見についても、と思っておりますので、
今日は写真整理が間に合わず! 宜しくお願い致しま~~す。



で、3人についてあれこれ資料を集めていた時、サイトでの新しい出会い、
というか再会した懐かしい絵が、なんと、

父親のメンモ・ディ・フィリップッチョのフレスコ画だった、という事を知り、
そうなんです、1989年の夏でしたから、ははは、xxxiii年前の事!!

今回はその再会した絵についてのお話を。


フィレンツェから南西に60km程に位置する、中世そのままに残る
サン・ジミニャーノ・San Gimignanoは訪問された方も多いと思いますが、

右に見えるのが、上に出たコレッジャータ教会で、左に続く太い大きな塔、
そしてその左がコムーネ宮で、この上階の市博物館に続き絵画館もあり、

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塔の下に見えるくぐり穴を抜けると中庭があり、

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階段を上ると、ぐるっと回って塔に上がれ、素晴らしい眺望が!


shinkaiは1989年に訪問の後、2014年秋口にもゆっくりめの日程で
出かけたものの、風景狙いで塔には上ったものの他の見学はしておらず・・。

で2014年の写真はしっかり残っているのですが、それ以前の1989年の
写真は日本から来てのフィルム写真はそのままになっており、怠慢!の罪で、
その後どこに仕舞ったか・・、


が、あの懐かしいフレスコ画は、しっかり記憶に残っていて、という訳ですが、
こちら、shinkaiが見た時は、この様にかなり擦れて、という様子でしたが、

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今回見つけたサイト記事で、修復になります、とあり、いつの記事かの
掲載がなく探し回るうちに新しい写真もあれこれ見つかり、

これはしっかり修復が済み、現在はこうなっているんだと嬉しい納得を!

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この壁画は、上の写真左側のコムーネ宮から続くトッレ・グロッサ・太い塔内に
あるカメラ・デル・ポデスタ・Camera del Podestàで、

つまり当時のサン・ジミニャーノの司法、執政長官の部屋にある壁画で、
1305年から1311年にメンモ・フィリップッチョが描いた、

結婚についての愛をテーマに、世俗的で道徳的な一連の画面なのですね。

物語には2つの流れがあり、1つは不幸な結末を伴う恋愛エピソードがあり、
狂ったように恋をしている人物が見られ、


この画面右側に見える3人は、左の人物が迎えに来て、彼のバッグを持ち、
衣服を掴み、早く行こう!と誘うのを、
右の母親が息子を心配し、手を引き腰を抑え、出かけぬ様止める場面。

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14世紀も今もまるで変わらぬ、恋愛心情と親の気持ち! ははは。

実は服装から「娘」と思ったshinkaiでしたが、ではなく、「息子」。

これが分かったのは、元がフランス語のサイトで、勿論翻訳ソフトのお蔭!
はぁ、アルプスを越え、美しいオルチャの谷観光にどうぞ、なのでしたぁ。


左は、ああ、やっと来たわね、と娼家の女達が引き込み、



次の場面は、左の天幕の中では、やって来た息子の服装は赤とピンクなので
ベッドの右側に座り、左はテントの外で待っていた中央の緑の娼婦で、
名もフィリデ、とあり、彼のバッグ、財布を奪い、

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そして、上の全体が写っている壁画を参照し、その左に続く場面はこちら。

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左に見えるピンクと赤の息子が攻撃を受け追い払われており、
右には緑のフィリデが息子のバッグを掴んでおり。

つまり甘い言葉に釣られてその気になったものの、遊ばれ、
お金を盗まれ、放り出された姿、でしょうか。

これはアリストテレスのお話にあるのだそうで、shinkaiは例により
知らずで、読んだままに記しています。


もう一度、上の全体写真を見ると、 右にあるのはこの場面で、

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顔が見えないのが残念ですが、これはダンテの「神曲」にも詠われた、
かの「パオロとフランチェスカ」の有名な場面で、

義理の弟パオロと恋仲に陥ったフランチェスカが、本を読んでいる場面と。
つまり誘惑。


n.2 グラダーラ  城 と パオロとフランチェスカ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/470815220.html



で、窓を挟んで左の場面はこちら。 修復前はなんだろ、これ?でしたが、
修復が済んだのを見るとしっかりよく分かり、笑いました。

お馬さん、走れ~、ははは。 これも髭の顔からアリストテレスの逸話と。

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後ろの窓から見る2人もあきれ顔で!
これは「アレクサンダー大王とロクサーヌ」という説明もあり、
ご存じの方お教え下さ~い!


この一連は、いわゆる「放蕩息子」の昔からのお話を描いている様で、
こうならない様に、という戒めですね。


もう一度全体写真、右の画面が良く見えるのをどうぞ。

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物語のもう一つの流れの場面は、上とは対照的に結婚の愛を語り、
精神的な真実を目指した愛が、肯定的な結果と平和な生活に繋がると。


結婚式が行われた後、白い衣装の花嫁が花婿の家に案内され、

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新居に着き、ゆっくりとお風呂を一緒に。 

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そして、お床入りね。

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落ち着いた花嫁で、これからの長い結婚生活も幸せに、という教えですね。



絵が残っている壁は北側、悪い恋愛、と、東の壁の良い結婚、で、
後は下の面に代々のポデスタを務めた方の家紋が。

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そうそう、読んで知ったのは、ポデスタには「外国人」が、
つまり土地のサン・ジミニャーノの人間は人情、損得の問題が絡むとし、
選ばれなかった様子。


と、「ポデスタの部屋」は、カメラ・ディ・ポデスタ、となっているので、
イタリア語ではカメラは寝室の意味を含み、こういうフレスコ画があるのが
少々不思議だったのですが、

お風呂や寝室場面の背後に見える縞の布、柄が「黄色と赤」ですね。
これはサン・ジミニャーノの自治体のシンボル色だったので、

寝室ではなく、評議会などに使っていた部屋、という認識があるそうです。

で、この一連のフレスコ画は、1921年に何層にも上から白く
塗りこめられた下に発見されたそうで。


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昔見た時は何も知らず、わぁお、何世紀も昔の壁画にこんなモチーフが。
さすがぁ、イタリアだぁ! と単純に喜んだものでしたが、ははは、


長い年月の後こうして再会し、どんな画家だったか、何の為のモチーフか、
等なども分かり、
他に残した作品、彼の息子の作品、そして婿となった画家が
残した作品などを知り、驚きつつ、意義深く感じたのを否めません。

修復もしっかり済んだのを知り、改めてじっくり会いに行きたく思った事でした。


美しき塔の町 サン・ジミニャーノ ・ 塔の上から、そして
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/467078009.html

サン・ジミニャーノの朝 ・ 雲海の朝焼け
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/466797663.html

サン・ジミニャーノ ・ San Gimignano
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/462677013.html

最後のリンク記事は、ブログを始めてじきの時で、買って戻った絵葉書の
裏の説明のまま、間違いの多い事を書いていますが、
今は昔の物がたり! ちゃんちゃん。


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