先回に続き、ウンブリア州のべヴァーニャ・Bevagnaの町のご案内を。
中心広場に面したサン・ミケーレ教会、
shinkaiが訪問した時は残念ながら曇り日で、やはりイタリアの風景には
青空が欲しく、サイトから拝借の写真でどうぞ。
shinkaiが訪問した時は残念ながら曇り日で、やはりイタリアの風景には
青空が欲しく、サイトから拝借の写真でどうぞ。
自前の写真にはサイト名があり、無いのがサイトから拝借のものです。
煌びやかな聖堂の残るフォリーニョ・Folignoの町から西に約10kmにある、
ローマ期の紀元前から栄えた町で、町の位置地図は先回のご案内に。
まず町の地図をどうぞ。 平野に位置するべヴァーニャの町で、
文字通り周囲を城壁で取り囲み、全体の長さは約2kmあるそうで、
各方向に向かう町の名を冠した門が6つ開きます。
文字通り周囲を城壁で取り囲み、全体の長さは約2kmあるそうで、
各方向に向かう町の名を冠した門が6つ開きます。
お天気が良い日でしたら、一周2kmの城壁外の散歩を
楽しむのも良いかもですね。
「紀元前からの歴史が残る」とタイトルに書いていますが、まさにべヴァーニャの
歴史は古く、鉄器時代から住民が住みついていたと言われ、
紀元前4~5世紀のウンブリ族の存在を示す考古学の発見もあるそう。
歴史は古く、鉄器時代から住民が住みついていたと言われ、
紀元前4~5世紀のウンブリ族の存在を示す考古学の発見もあるそう。
実際この町は先回出た、ローマからアドリア海のリミニに通じるフラーミニア街道
が通っていた紀元前220年頃からの繁栄が目覚ましく、
が通っていた紀元前220年頃からの繁栄が目覚ましく、
またローマ期にメヴァーニア・Mevaniaと呼ばれていたこの町は、当時トピーノ川・
Topinoが船の運航可能で、物資運搬の川の港も持ち、この川は
キアーショ川・Chiascioに合流し、最後はテーヴェレ河となりローマに、
というので、通商交易で繁栄していたのですね。
Topinoが船の運航可能で、物資運搬の川の港も持ち、この川は
キアーショ川・Chiascioに合流し、最後はテーヴェレ河となりローマに、
というので、通商交易で繁栄していたのですね。
実際当時は雄牛の飼育の牧畜業が盛ん、農業も盛ん、麻布、ロープなども有名で、
町の周囲を囲む城壁が出来たのも当時で、町に今も残るローマ期の寺院、
フォロ・ロマーノ、アンフィ・テアートロ、テルメなどが残る事からも分かりますね。
町の周囲を囲む城壁が出来たのも当時で、町に今も残るローマ期の寺院、
フォロ・ロマーノ、アンフィ・テアートロ、テルメなどが残る事からも分かりますね。
ローマ帝国滅亡後のこの町は、皇帝領に含まれたり、スポレート、フォリーニョ、
ペルージャなどの下に入ったり、神聖ローマ帝国領にもなったりと目まぐるしく
変わり、町自体は衰退して行き、
現在こうして、ローマ期、古い中世期がそのまま残るという様子です。
ペルージャなどの下に入ったり、神聖ローマ帝国領にもなったりと目まぐるしく
変わり、町自体は衰退して行き、
現在こうして、ローマ期、古い中世期がそのまま残るという様子です。
で、今回は先回町の中心広場にあるサン・シルヴェストロ教会迄ご案内
しましたので、それに続き上の地図に赤線で囲った1の上、
サン・シルヴェストリ広場を挟んで向かい側の、サン・ミケーレ教会の
ご案内から始め、
2は、市博物館、ここはshinkaiは見ておりませんで、
3に、ローマ期の浴場、テルメ・ロマーノ 4にローマ期寺院、
5は、ちょっと道がカーヴしてますね、ここにアンフィ・テアトロがあったそうで、
その跡が現在住宅になっていて、中世の家として内部を見せていたのを、
という様な今回のご案内です。
5は、ちょっと道がカーヴしてますね、ここにアンフィ・テアトロがあったそうで、
その跡が現在住宅になっていて、中世の家として内部を見せていたのを、
という様な今回のご案内です。
さて、最初に正面を見て頂いたサン・ミケーレ教会・San Micheleですが、
建設が始まったのは1070年、向かい正面にあるサン・シルヴェストロ教会と
同じマエストロ2人・ビネッロ・Binelloと、ロドルフォ・Rodolfoの作と。
建設が始まったのは1070年、向かい正面にあるサン・シルヴェストロ教会と
同じマエストロ2人・ビネッロ・Binelloと、ロドルフォ・Rodolfoの作と。
ここに元あった古い礼拝堂の後に建設されたのだそうで、
サン・シルヴェストロ教会の建設が終わるかどうかに、始まった事になり、
べヴァーニャの町の最初の聖堂としての建設で、コッレッジャータ・Colleggiata、
聖堂に継ぐ位置にまで認証されたのが廃止となった経過があります。
サン・シルヴェストロ教会の建設が終わるかどうかに、始まった事になり、
べヴァーニャの町の最初の聖堂としての建設で、コッレッジャータ・Colleggiata、
聖堂に継ぐ位置にまで認証されたのが廃止となった経過があります。
こちらが正面入り口で、13世紀、上部半円にはコズマ式のモザイク模様も
見られ、トラバーチン・石灰華の石の彫り物で大天使サン・ミケーレ像が
左右にあり、その下の彫り物のある脇柱は、ローマ期のリサイクルと。
見られ、トラバーチン・石灰華の石の彫り物で大天使サン・ミケーレ像が
左右にあり、その下の彫り物のある脇柱は、ローマ期のリサイクルと。
木製扉はいつのものか分かりませんが、彫りも新しいので近年のものと。
こちらが上部半円の木製の彫りで、ほら、大天使サン・ミケーレが、
やはり背中に羽のある、つまり天使をやっつけている、 どういう事?
それで改めて大天使サン・ミケーレについて調べました。
つまり3人の大天使というのは、ガブリエル、この大天使は聖マリーアに
「受胎告知」をする大天使として描かれている方で、もう1人はラファエロですが、
旧約聖書に出る魚を持ち、トビアスと旅を一緒にする天使で出ますが、
新約聖書には現れず、それで名前も聞いた事が無かったのですね。
「受胎告知」をする大天使として描かれている方で、もう1人はラファエロですが、
旧約聖書に出る魚を持ち、トビアスと旅を一緒にする天使で出ますが、
新約聖書には現れず、それで名前も聞いた事が無かったのですね。
大天使ミケーレは天国から追放された堕天使サムエルが道連れにしようと
ミケーレの羽を抑え込んだものの、神によって援けられたという事で、
ミケーレの羽を抑え込んだものの、神によって援けられたという事で、
半月の中の大天使ミケーレが、炎の剣を持って堕天使サムエルを抑え込んでいる、
という事になりますね。 普通は剣を持つミケーレですが、ルネッサンス期から
炎の剣をかざす、という姿でも表現されるようになったそう。
という事になりますね。 普通は剣を持つミケーレですが、ルネッサンス期から
炎の剣をかざす、という姿でも表現されるようになったそう。
大天使ミケーレの浮彫 n.2 古寺巡礼 サン・ピエトロ教会 ・ スポレート
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471738115.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/471738115.html
入り口脇上の左右に大きな姿で浮き彫りにされている大天使ミケーレ像、
左側はドラゴンをやっつける姿で、像の下に見えるのは
マエストロ・ロドルフォとビネッロの献辞。
そして、右側は同じく大天使のミケーレが飛ぶ姿!
この「飛ぶ天使」の像、というのがとても気に入って頭に残っており、描こう!と
思い切って描き始めていますが、それでもっと詳しく知りたくなり、あれこれ読み、
ブログにも載せようと思った切っ掛けとなりました。
思い切って描き始めていますが、それでもっと詳しく知りたくなり、あれこれ読み、
ブログにも載せようと思った切っ掛けとなりました。
素敵でしょう、空飛ぶ天使!! 鉄腕アトムの主題歌が聞こえそう、ははは。
この辺り脇柱の石は、ローマ期の建材からのリサイクルだそうで、
鳥の姿が可愛いでしょう? 水鳥、鷺かな。
こちらは正面壁の上、薔薇窓の下の位置にある、水平の飾り部分で、
小さなアーチの横に、人間の顔、動物の顔が並びます。 中世の香り!
小さなアーチの横に、人間の顔、動物の顔が並びます。 中世の香り!
といった正面外側のロマネスクに反し、内部はバロック式に改装されていて、
私は見ておりませんが、こんな様子で、サン・シルヴェストロ同様、内陣が高く、
下にクリプタの構造で、3廊式。
内陣上に、こんなドームもある様で。
鐘楼は後のゴシック式の尖塔を持つ姿の、
サン・ミケーレ教会、でした。
町中の狭い小路はこんな様子で、
そうそう、蜂の巣から作る蜜蝋の蝋燭作りを見せている、というので
見たかったのですが、時間が合わずで残念でした。
見たかったのですが、時間が合わずで残念でした。
こちらは図の4、元ローマ期の寺院跡で、後に教会に変更されたもので、
shinkaiの写真よりも良く分かるのでこれを。
この教会の南に、かってフォーラムがあったそう。
そして図の3.ローマ期の浴場跡が見れるというので、喜んで行きました。
ヴィア・デッレ・テルメ・ロマーネ・Via delle Terme Romane.
当時はまだきちんと博物館式になっておらず、案内もボランティアの方の
様で、ちょうど発掘され整備されてまだ日が浅い、という感じだったと。
様で、ちょうど発掘され整備されてまだ日が浅い、という感じだったと。
手前の戸口から入ったものか、向こう半分に綺麗になっている戸口だったか、
ハッキリしませんが、内部からの写真では半円の窓が3つ見えるので、
どちらの建物にも跨った形、ローマ期には一つの建物だったのかも、ですね。
ハッキリしませんが、内部からの写真では半円の窓が3つ見えるので、
どちらの建物にも跨った形、ローマ期には一つの建物だったのかも、ですね。
内部の様子。 そう、こんな鉄格子の上を歩き、覗き込む形。
海の生き物がいっぱいに描かれているもので、
広さは12x6,75m、 紀元後2世紀の初めのものと。
それは良いのですが、この写真で見える様に、ちょうど人物の上に鉄格子が
かかり、肝心の人物が良く見えないのですよぉ。
ほらね、たまたま人物像が既に剥落していたのかもしれませんが、
それはそれでどうなっているのか見たいではありませんかぁ。
それはそれでどうなっているのか見たいではありませんかぁ。
ほらね、shinkaiのでは、少し顔が見えるでしょう!
黒一色のモザイク片を使ったものですが、かなり盛り上がった形に見え、
如何にも動的で、簡潔なデザインの、見事なモザイクでした!
モザイク師はデザインを持ち歩き、注文主に見せて承諾を得たと
聞きましたが、デザインは紙だけど、使う石はどうしたんだろう、と。
やっぱりロバなどを使って持って回ったのかなぁ? 現地調達かな?
どの位のお湯の深さだったのか聞きましたが、考えていたのよりももっと浅く、
膝の半ば迄位、と聞いた記憶がありますが、この広さではそうなるのかな?
これに関してはもうちょっと良く知りたい部分ですね。
膝の半ば迄位、と聞いた記憶がありますが、この広さではそうなるのかな?
これに関してはもうちょっと良く知りたい部分ですね。
図の5、元アンフィ・テアトロ・野外劇場跡で、知らずに行ったものの、
何となく不思議な感じのする広場があり、つまり周囲を取り巻く建物類、
元々は桟敷席をリサイクルして家並になっているのですが、
何となく不思議な感じのする広場があり、つまり周囲を取り巻く建物類、
元々は桟敷席をリサイクルして家並になっているのですが、
少し下り坂になった位置にあり、何となく不思議なイメージで眺めたのですが、
その脇に、中世の家を見せる、というのがあり、中に入りました。
台所、
そして、浴槽。 これはお姫様用の設えですね、はは。
機織り機もあり、頑丈な形ですが、綜絖が2枚の単純な平織機ですね。
質素なテラコッタの器等を売っていて、お醤油皿に良いかと小さなお皿を
2枚ほど買いましたが、多分欲しいと思う物が他に無かったのだろうと。
そう、日本の陶器に慣れた身には、こちらのはねぇ。
2枚ほど買いましたが、多分欲しいと思う物が他に無かったのだろうと。
そう、日本の陶器に慣れた身には、こちらのはねぇ。
アンフィテアトロ跡の再構築 アンフィテアトロ広場 ・ ルッカ
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465780813.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/465780813.html
こちらは最後に見た、図2の、ポルタ・トーディ・Porta Todiの内側に
広がる広場で、右側の大きなアーチはパラッツォ・コンソリのロッジャで、
広がる広場で、右側の大きなアーチはパラッツォ・コンソリのロッジャで、
左はシルヴェストリ教会の後陣の後姿。
べヴァーニャの町では6月後半に、有名なガイータのお祭り、中世市が
開かれ、なかなか本格的なもので楽しそうですし、
開かれ、なかなか本格的なもので楽しそうですし、
中世好きの方、ローマ遺跡、モザイクに関心のある方にもお勧めの町です。
フォリーニョ辺りまでお出かけでしたら、是非どうぞ!
フォリーニョ辺りまでお出かけでしたら、是非どうぞ!
ご訪問よろしくお願い致しま~す。
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