・ 10世紀ローマ  教皇庁を美貌と色で手玉に取った女性がおったそうな

いやぁ、最初ちらっと覗いた時は、美人の色仕掛けに引っ掛かった
ローマ教皇がおったかやと、軽~く考えたのでしたが、

なんとなんと読んでいくとなんとも凄まじい、しかも母親その娘と2代、
それも娘の方が母親以上の権力欲で、自分の美貌を武器に、
という事で、はぁ、

参考にしたサイト記事はこちら
マローツィア:ポルノクラーテの女王
Marozia: la storia della Regina Pornocrate

事情はまるで知らず、ポルノクラーテとは何ぞや、からで、

ポルノは、なんとギリシャ語源で、売春婦、ポルノグラフィー、
クラーテ、やはりギリシャ語源で、権力者 という事で、ふむふむ。
ポルノなる言葉が、この様に歴史を持つ深い言葉とは! ははは。

で、日本語では「ポルノクラシ―」という言葉が当てはまり、使われ、
「娼婦政治」「婦娼政治」などと言われるのだそう。

「ポルノクラシ―」に当たる元の「ポルノクラーテ」なるイタリア語は、
枢機卿で歴史家のチェーザレ・バローニオ・Cesare Baronio(1538-1607)
が作られた言葉で、この方は「教会年代記」を書かれた方と。


今回、事情を確かめる為、また各人物名もそれぞれウィキペディアで
確かめましたが、確かに10世紀前半に起こった事実である事を!

で、上に出た「マローツィア・Marozia」なる女性がこのご本人で、

1-La-storia-di-Marozia-dei-Teofilatti-1.jpg

残念ながら当時の人物像としては教皇様方の肖像は何とかあるものの、
それも年齢などにまるで関係のない、多分後世に描かれた肖像で、
まして一般人などは・・。
この鉛筆による「マローツィア像」も1861年のものと。


10世紀、一般に5世紀から15世紀までを中世とするそうですが、
となると、厳しく暗い中世のど真ん中にあり、

ローマにある教皇庁はカトリックの最高の権威として、人間行動のすべてを
定め決定する場所でありましたが、

枢機卿間の内部対立、貴族の家柄間の陰謀、同盟裏切り、教皇選挙、
凶悪犯罪、破門、クーデターと、すべてが揃っている場所でもあり、
当時の教皇位にあった多くの教皇様方は、華やかさと悪徳、淫らと堕落、と
いう特徴を持ち、


904年1月29日に119代教皇位に就いたセルギウス3世(860頃~911)
戴冠時44歳、も例にもれず。

2-1-Pope_Sergius_III.jpg

ローマから北西に約45kmに位置する、現チェルヴェーテリ・Cerveteriの
司教から教皇になったセルジョ・デイ・コンティ・Sergio dei Contiは
邪悪で容赦のない性格を持ち、強い野心の達成の為にはためらうことなく、

トスカーナの侯爵アダルベルト・Adalbertoが調達した兵と共に
ローマに入り、長老のクリストフォロを倒し、(投獄、殺害)、彼の位置に。

こうした奇襲が成功したのは、侯爵アダルベルトの援助のみでなく、
ローマの強力で影響力を持つ一家テオフィラット・Teofilattoの
支えがあったからと。

テオフィラットの妻テオドーラ・Teodoraは容姿が魅惑的のみならず、
賢く、貪欲で、上院議員・senatrixに選ばれ市内で高く評価され、
この上院議員とは一種の外交特権を与えた称号で、
その上vestaratrix、つまり教会財政の管理者、という権力者。

とはいえ、文盲であったという彼女がこれらの権力を手にしたのは、
恋愛関係を介し、影響力ある人物とのエロチックな政治の闇取引で、

とりわけ新教皇となった夫の従弟でもあるセルギウス3世とは、
夫の知らない不倫関係にあり、 ・・とありましたが、いや、
知っていて知らぬ顔でさせていた、という事だったろうと。

こうしてテオフィラットとテオドーラ夫妻は、ローマで誰もが認める権力を手に。

10世紀当時の教皇庁は、こうして何でもする気の貪欲な貴族たちや、
強力な枢機卿たち、邪悪で好色な教皇たち、美しく淫らな女たちにとって
格好の獲物、狩猟場であったと。


で、904年1月教皇セルギウス3世戴冠式の日、テオドーラとテオフィラットの
当時14歳ほどの大変に美しい娘マローツィアが出席しており、

新教皇が彼女に目を止めるのに母親のテオドーラが気づき、
今迄の自分の引き換えに差し出し、美食家の教皇が捉えた訳で、

主役は替わったものの母親同様、そしてそれ以上に度を越えていた様で、
クレモナの司教リウトプランド・Liutprandoが書き残した記録によると、
「女神の様に美しく、熱情は雌犬の様」と。

教皇は14歳の彼女をラテラーノのアパートに連れてゆき、そこで夫婦の様に
暮らし、大きなスキャンダルを巻き起こしたものの、2人は別に恥も知らず、
彼女の両親は2人の絆から恩恵を受けたと。

こちらは19世紀の、サン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂。

2-2-Roma-_San_Giovanni_in_Laterano xix.jpg

このラテラーノのアパートというのは、現在のラテラーノの聖堂のある位置に、
かってローマ期に貴族の豪華な邸宅があり、コンスタンティヌス帝の妻が住み、
多分313年頃にキリスト教徒たちが邸宅を譲り受け、

以降ここに教皇が暮らすようになり、敷地内のバジリカが聖堂に転用されたりで、

後年アヴィニョンからローマに教皇庁が戻って後は、テーヴェレ河沿いの
サンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂に暮らす事になり、
ヴァティカンの教皇宮殿のアパートはその後の事と。



そしてまだ若いマローツィアが妊娠し、大論争を巻き起こすものの、
910年頃に男子が生まれ、ジョヴァンニ・Giovanniと名付けられ、

この子が後の教皇ヨハネ11世に。

3-Ioannes_XI.jpg


一方スポレート公アルベリーコ1世・Albericoとの息子であるという説もあり、
マローツィアがセクシーであると同時に不貞であり、教皇セルギウス3世以外に
複数の関係があったという事で。

アルベリーコの目的の1つのイタリア国王戴冠を、909年に果たし、
多分お腹の子は教皇の子でしょうが、マローツィアとアルベリーコは結婚。

マローツィアは強い勢力の男がお好み。 アルベリーコの様に裕福で、
トスカーナとカメリーノの侯爵、スポレート公、それも正統な跡継ぎを
惨殺して手に入れたもので、中央イタリアに領土を広げ、
となると、分かりますね?


1000年当時のイタリアの地図を。 アドリア海側に広がるスポレート公国・
Ducato di Spoletoと、西に広がる黄色のトスカーナ侯爵領・
Marchesato di Toscanaの広さが良く分かります。

4-Italy_1000_AD-.jpg



セルギウス3世は未練たらたらでも、既にマローツィアの気持ちは離れており、
2年後911年に教皇は死亡、マローツィアが毒を、という疑いも。
というのも、毒を与えるのは、見知らぬ人間では出来ぬからですね。


マロ―ツィアとアルベリーコの間には4人の息子が生まれ、アルベリーコ2世、
コスタンティーノ、セルジョ、そしてデオダートで、
先に生まれていたジョヴァンニも、2人の間の嫡子となります。



セルギウス3世の後、短い期間の教皇が2人続き、
914年3月に122代のヨハネス10世が即位を。


5-Giovanni_X disegno tratto da Franco Cesati, 1861..jpg

この肖像も1861年に描かれたもので、何か難しそうな顔を。

彼もマローツィアの母テオドーラの愛人だったとあり、
夫テオフィラットと様々に画策を。


性格が強く支配的でもあった教皇は、915年12月に神聖ローマ帝国皇帝冠を
戴いたフリウリの、ベレンガーリオ1世侯爵・Berengarioに近づくものの、

様々に変わる中世の政治情勢で、ベレンガーリオは924年4月ヴェローナの
教会で殺害され、イタリアは再度混乱に陥り、

その隙に入り込もうとしたマローツィアの夫アルベリーコは、教皇がそそのかした
民衆の動乱により殺害され。


イタリアの君子達はイタリア王にプロヴァンスのウーゴ・Ugo(ヒュー・Hugues)
を選び、

なぜイタリア王にプロヴァンスから、と質問しないでくださいませませ。
はぁ、勿論彼の経歴も読みましたがぁぁ、読んだ所で頭にすらっと入らぬ程で・・。
ここではshinkaiの書いている、マローツィアに関する事のみを、よろしくぅ!!

夫を亡くしてもめげないマローツィアは、イタリア王となったウーゴの異父弟
グイド・Guido、トスカーナ侯爵と結婚し、狡猾な手段で愛と権力を手に。


こうして彼らの敵、結婚に反対した教皇ヨハネス10世を投獄、
枕で窒息させ。

6-Maroiza-Giovanni-X.jpg

恐ろしい目つきで、教皇殺害を見守るマローツィア。
どうしてこんな挿絵が出て來るのか笑えますが、やはりこういうお話は
歴史の中で語り継がれ、絵を見て納得という人々も多かったかと、へへ。


クレモナの枢機卿リウトプランドは語ります。
「テオードラは彼に冠を与えた。 マローツィアは彼から冠を取り、命も」と。

ヨハネス10世の在位は当時の教皇の中では大変に長く、14年2か月。


その後2人の短く弱々しい教皇が続き、勿論マローツィアが選んだ
動かしやすい教皇で、


931年3月ヨハネス11世の名で、彼女の産んだ子が教皇位に就き、
935年12月までの4年10か月を。

7-Marozia-dei-Toefilatti-1.jpg


彼も性格が弱く、母親の支配下に置かれ、マローツィアが政治を、
教皇庁の実権を握ります。



929年夫グイドを亡くし再度寡婦となりますが、悲しみに長くは泣かず、
大胆な女性の貪欲な欲望は、亡くなった夫の兄、プロヴァンスと
イタリア王であるウーゴに目を付けます。

が、兄弟は異父同母、つまり教会法では近親相姦に当たるとして
反対されるものの、マローツィアは実の兄弟ではないとでっち上げ、

実子であるヨハネス11世の祝福の下、カステル・サンタンジェロで
盛大な結婚式、祝宴を。

8-Marozia-dei-Toefilatti-4.jpg

が、この結婚は悪い予言の下に始まり、マローツィアが相談した
占星術師は、この日は注意する事、非常に注意するようにと警告し、

結婚に漕ぎつけたものの彼女は用心深く、会場に入る前に招待客
全部の武器を預かり、自分と夫の料理の味見もさせる程に。


アルベリーコ1世、マローツィアの最初の夫アルベリーコ1世との子が、
勇気と不屈の誇り高い性格で美男のアルベリーコ1世は近くの席から、
会場のすべての臨席者に、彼が不満と嫉妬、近親相姦の侮辱的な
結婚をした母親への、花婿への軽蔑を見せており、

夫になったウーゴは、義理の息子アルベリーコを触発し、反応すると
満席の中で平手打ち、という場面となり、
おまけにウーゴは隠していた短剣でアルベーリコの目を突こうと。


淫乱な母親と、それにふさわしい夫に対し激しい言葉を投げつけた後、
サンタンジェロ城から飛び出し、

ローマの人々を呼び集め、彼の心からの反逆と憤慨の叫びは、
既に暫く前からマローツィアに対する恨みと反逆を抱いていた
ローマの街と市民全体に広がり、

「ローマの街の尊厳は、売春婦の政府に従う程の愚かさになったのか!」
という演説は、市民の驚きと称賛を集め、

「売春婦・meretrici」という言葉を、アルベリーコは祖母のテオドーラと
母親のマローツィアに強調して使い、

「1人の女の近親相姦の為に、ローマの市民権全体が破滅するよりも
恥なスキャンダルは一体何なのか?!」と。



こうしてローマの多くの鐘が鳴り始め、市民権を救うように促し、
駐屯中のウーゴの軍隊が城門内に入るのを防ぎ、市民達は突進し、
披露宴会場に襲いかかり、

恐怖に駆られたウーゴは、花嫁を残し城砦からロープを下ろし逃げ出し、

マロ―ツィアは修道院に、カステル・サンタンジェロの牢にとも、閉じ込められ、
人生舞台のまばゆいばかりの光の中にいたのが、永遠に影の中に。

生年月日が正確に分からないのと同様、多分937年だろう
確かな死亡年も分らぬままで、 多分42歳~47歳の死だったろうと。

リウトプランド司教は、マローツィア・デイ・テオフィラッティの人生を
「高位聖職者と枢機卿と一緒に横たわり、統治し、恩恵を受けた
恥知らずの娼婦」と。


実の息子で、彼女の人生を閉じたアルベリーコ2世は、
「解放者」として称賛され、「すべてのローマ人の王子、及び上院議員」に
選出され、市の支配者として、954年に彼の死迄統治を。



という10世紀ローマに起こった、母子2代が教皇庁の政治を引きまわした
「ポルノクラシ―」の時代は、

119代のセルギウス3世教皇時から、マローツィアが権力を失った932年迄、
という見方と、

その後の、アルベリーコ2世の子の、130代のヨハネス12世の時代までの
約60年間を指す、というのと2点あり、

このヨハネス12世がまるで出来の悪い教皇だったのと、

9-GiovanniXII.jpg


アルベリーコ2世がローマ支配を思いのままに、教皇を続けて擁立、
親族からも、という事で、

見方を変えれば、如何にもマローツィアの息子であった、とも!


それにしても、日本史にも何人か政治に加わった女性達がおりましたが、
どうも桁が違うなぁ、という感じで、ははは、イタリア女性は凄いなぁ、
という単純率直な感想を持ちましたが、皆さんは?!


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