1903年2月11日、サンペトロブルグの冬の宮殿・現エルミタージジュ美術館
に於いて大仮装舞踏会が開かれました。
に於いて大仮装舞踏会が開かれました。
これはロマノフ朝の290年を記念し、皇帝ニコライ2世の治世下に行われた
最も豪華な舞踏会で、
ロマノフ家は当時ヨーロッパに於けるもっとも古い支配貴族の1つで、
そして多分ほぼ絶対的君主権を維持していた唯一の君主家だったのですね。
最も豪華な舞踏会で、
ロマノフ家は当時ヨーロッパに於けるもっとも古い支配貴族の1つで、
そして多分ほぼ絶対的君主権を維持していた唯一の君主家だったのですね。
こちらはそのロマノフ朝最後の皇帝ツァーと、その家族の肖像写真。

こちらが舞踏会に招待されたロシアの有力貴族たち約390名と、
ロマノフ家の10数名の参加者、つまり400名の記念写真。

この舞踏会に参加の貴族たち正装の姿はアーカイヴ写真に残されており、
勿論当時は白黒写真で、
勿論当時は白黒写真で、
それを現在のロシア人アーティスト、オルガ・シルニーナ・Olga Shirnina、
「Klimbim」と署名、が色付けしており、
最初にご覧頂いたニコライ2世とその家族写真、多分1013年頃、も
オリジナルはこの様に白黒写真。
オリジナルはこの様に白黒写真。

実は皆さんも良くご存知の様に、この大舞踏会の後ちょうど1年後には
我が国との日露戦争が始まり、1905年にはロシア革命が始まる、という
時期で、世界的な経済危機もで再度舞踏会が開かれる事はなく、
我が国との日露戦争が始まり、1905年にはロシア革命が始まる、という
時期で、世界的な経済危機もで再度舞踏会が開かれる事はなく、
そしてこの大舞踏会の15年後の1918年7月17日、ニコライ2世とその妻、
子供達5人すべてが革命軍ボルシェビキの下に惨殺され、
ヨーロッパで大勢力を持っていた1つロマノフ家の消滅、という事態に。
子供達5人すべてが革命軍ボルシェビキの下に惨殺され、
ヨーロッパで大勢力を持っていた1つロマノフ家の消滅、という事態に。
この「皇帝一家の処刑」については、実はイタリアに来て間もなくの頃
TVでドキュメンタリー放映があり、その惨さと共に日本とは格別に違うと、
いわばカルチャー・ショックを受けた放送内容が、記憶に鮮明に残り、
当時は殆ど知らなかった事もその後折に触れ新しく知識を得る様に。
お知りになりたい方は、こちらのウィキに詳細が。
TVでドキュメンタリー放映があり、その惨さと共に日本とは格別に違うと、
いわばカルチャー・ショックを受けた放送内容が、記憶に鮮明に残り、
当時は殆ど知らなかった事もその後折に触れ新しく知識を得る様に。
お知りになりたい方は、こちらのウィキに詳細が。
今回はたまたま見つけた、いわば「ロマノフ王朝、最後の大輪の花」とも思う、
大舞踏会に参加の美しい貴族女性の正装姿を載せたサイトを見つけたので、
それをご案内しようと。
当時のサンピエトロブルゴ、またロシア全土では一般民衆の貧窮、労働者蜂起の
機運も高まっており、それに対する抑圧も強く、
機運も高まっており、それに対する抑圧も強く、
一方貴族社会においてはオペラやバレーの鑑賞、音楽会が世界の中心で、
ロシア語ではなくフランス語を話し、衣装や家具もすべてパリに注文し・・、
という様子だったのですね。
この舞踏会では参加者すべてが17世紀の衣装で、ロシア人芸術家
セルゲイ・ソロムコのデザインを元に宝石を散りばめた衣装で、と定められ、
まずは皇帝ニコライ2世とその妻アレクサンドラを。

彼らの衣装は17世紀の皇帝アレクセイ・ミハイロヴィッチ(1629-1676)と、
その2番目の妻ナターリア・キリロヴナ・ナルイシキナ(1651-1694)の衣装だそうで、
その2番目の妻ナターリア・キリロヴナ・ナルイシキナ(1651-1694)の衣装だそうで、
皇帝ニコライ2世が着ているのは、金糸のブロケード・浮き織、
皇后アレクサンドラの衣装は銀のサテン、王冠には真珠とダイアモンドがちりばめられ、
衣類正面には目をむくほどの、はは、大きなエメラルド!!
この衣装は現在だと約1千万エウロに相当するであろう、と。
この衣装は現在だと約1千万エウロに相当するであろう、と。
ニコライとアレクサンドラはこの舞踏会の9年前に結婚しており、当時上の娘4人
オルガ、タチアーナ、マリーア、そしてアナスターシャの両親であり、
最初の写真に見えた息子アレクセイは、この舞踏会の翌年に誕生。
一番下の娘アナスターシャは、映画やアニメでも取り上げられる、
ロマノフ一家の惨殺を免れ生き残こったとも言われる謎の人物ですが、
当時の様子を読むと、まず生き残る事はなかったであろうと思われます。
当時の様子を読むと、まず生き残る事はなかったであろうと思われます。
最後に生まれた、待望の男子であったろうアレクセイは遺伝の血友病持ちで、
これは出血が止まらない病気で、内臓の出血もありで、
両親は大変な心痛を抱え、外には内緒にしており、とりわけ母親アレクサンドラは
この為怪僧ラスプーチンへの帰依が深まり、問題が起こる程だったと。
これは出血が止まらない病気で、内臓の出血もありで、
両親は大変な心痛を抱え、外には内緒にしており、とりわけ母親アレクサンドラは
この為怪僧ラスプーチンへの帰依が深まり、問題が起こる程だったと。
アレクサンドラはドイツからのお輿入れで、当時大変な美人の誉れ高かったものの、
徐々に政情不安と共にドイツ人嫌いが高まり、一般民衆には好かれていなかったそう。
徐々に政情不安と共にドイツ人嫌いが高まり、一般民衆には好かれていなかったそう。
という様なあれこれ周囲のご説明の後は、麗しの美人たち、カラーで見ると
一際美しさも増す、衣装も素晴らしい溜息ものの写真をどうぞ。
一際美しさも増す、衣装も素晴らしい溜息ものの写真をどうぞ。
ここに写っている女性たちはすべてロマノフ家の宮廷に集う貴族女性であり、
宝石を縫い込んだ衣装と、ココシュニックと呼ばれる被り物には一族の素晴らしい
宝石が飾られている物だそう。
宝石を縫い込んだ衣装と、ココシュニックと呼ばれる被り物には一族の素晴らしい
宝石が飾られている物だそう。
但し、個人名については他のサイトと2人程食い違いがあるのを先にお断りを。
アナスターシャ・コルサコーヴァ嬢。

エリザベッタ・オボレンスキー姫。

肩書も発音も分らない男性、Cornette Kolioubakineと.
但し胸の双頭の鷲は、ロマノフ家の紋章でもあるので・・。

男性たちは豪華な刺繍を施したカフタン・トルコの民族衣装から発生した長袖、
袷仕立て、長いゆったりとした前開きのガウン、を着用したそう。
袷仕立て、長いゆったりとした前開きのガウン、を着用したそう。
この白黒写真、大公アレクサンダー・ミハイロヴィッチ、ニコライ2世の義理の兄弟。
革命時クリミアに家族と共に逃げ、1919年イギリス海軍戦艦マールバラに救出、亡命。
革命時クリミアに家族と共に逃げ、1919年イギリス海軍戦艦マールバラに救出、亡命。

確かに素晴らしい衣装で、これがカラーで見れないのが残念。
伯爵夫人ケラー。 生まれはシャホフスコイの姫と。 気品高く。

男爵夫人エマ・ウラジーミロヴナ・フレデリクス。

クダシェヴァ姫。

大公妃クセニア・アレクサンドロヴナ。

オルガ・オルローヴァ姫。 煙った様な瞳といは、こんな目なのでしょうね!

アレクサンドラ・タニーヴァ嬢。

アレクサンドラ皇后の侍女タチシェヴァ。

伯爵夫人エリザベッタ・ムーシン-プシュキナ。

伯爵夫人フェルセン。 生まれはドルゴルキーの姫。

最後は、著名貴族ジナイダ・ユスポフ。 少しピン甘が残念ですが、

毛皮を取った、素晴らしい衣装、笑顔の写真も見つけましたぁ。

あの帝政ロシアの最後の大舞踏会の花たち、その後の彼らの人生は
どの様な変遷を辿ったのかと思いますが、
あぁ、本当に、夢の世界、夢幻の跡、ですねぇ。
*****
当ブログご訪問、有難うございます!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!
見たよ! の応援クリックも宜しくお願い致しま~す!

*****
*****
コメントの書き込みについてのお願い。
ブログの記事下に、「コメントを書く」が出ていない時は、
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
上か右の、記事タイトルをクリックして頂けると
記事の一番下に「コメントを書く」が出ますので、よろしくお願いいたします。
非公開コメントをご希望の場合は、非公開で、と書いて頂くと、
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。
コメント承認制ですので、保留にし、お返事だけ公開しますので、
それもご了承下さいませ。