皆さんもきっとパスタ料理が大好き、スパゲッティも、ラザーニャも!
と思いますが、その長~い歴史の中での変遷をちょっぴり、
という事で、よろしくお願い致しま~す。
イタリアの乾燥パスタ類。 これはもうホンの一部で~す!
パスタ、というと如何にもイタリア、イタ飯、というイメージですが、
「麺類」となると、日本にもお蕎麦があり、饂飩がある様に、
世界中で何千年もの間食べられてきた食物ですね。
「麺類」となると、日本にもお蕎麦があり、饂飩がある様に、
世界中で何千年もの間食べられてきた食物ですね。
ギリシャ人は小麦粉とソースをベースにしたパスタ、を食べましたが、
ローマ人は水と小麦粉から作られ、オーブンで調理された大きな
生パスタ、ラガナエ・Laganae、後に現在のラザーニャとなった、を
食べていたそうで。
生パスタ、ラガナエ・Laganae、後に現在のラザーニャとなった、を
食べていたそうで。
ですが実際のパスタには、一般的なパンやお菓子に使われる
軟質小麦と違う「硬質小麦・デューラム小麦」と呼ばれる穀物を使い、
こちら左側が硬質小麦からのセーモラ・セモリナで、
右が軟質小麦のファリーナ・普通の小麦粉。 粗さと色の違いを。
硬質小麦を粉砕したデュラム小麦から粗びきの小麦粉セモリナが
得られ、これを水で練って様々な形に成形したのがパスタで、
得られ、これを水で練って様々な形に成形したのがパスタで、
この加工品を乾燥させることにより、長期保存でき、
これがパスタ食品の大きな発展の元となったのでしょうね。
これがパスタ食品の大きな発展の元となったのでしょうね。
デュラム小麦のパスタ文化は中世のイスラム世界で発展し、
ペルシャからもたらされた可能性もあると言い、
ペルシャからもたらされた可能性もあると言い、
中世のパスタの普及に関する重要な証拠は、シチーリア島の
ルッジェーロ2世・RuggeroII(1095-1154)の宮廷に、
ルッジェーロ2世・RuggeroII(1095-1154)の宮廷に、
18年間仕えていたアラブの地理学者ムハンマド・アル・イドリーシ・
Muhammad al-Idrisi により提出されており、
Muhammad al-Idrisi により提出されており、
12世紀半ばのシチーリア島には、既にパスタを大量に生産する
粉引き場、すなわちパスタの生産工場があったと。
粉引き場、すなわちパスタの生産工場があったと。
上のルッジェーロ2世という方は、1130年に初代シチーリア王と
なられた方で、
シチーリア王国はイタリア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人などが
民族的、宗教的寛容により融和した多民族国家で、
地中海の支配権を握り、ヨーロッパの強国の1つとなったのだそうで。
なられた方で、
シチーリア王国はイタリア人、アラブ人、ノルマン人、ユダヤ人などが
民族的、宗教的寛容により融和した多民族国家で、
地中海の支配権を握り、ヨーロッパの強国の1つとなったのだそうで。
と、ちょっと横道にそれますが、
アラブの地理学者ムハンマド・アル・イドリーシがルッジェーロ2世に
命じられ、1138年頃から15年間かけて作った世界地図をどうぞ。
命じられ、1138年頃から15年間かけて作った世界地図をどうぞ。
これを見て、なんじゃ、これ、と思われるでしょ? 実はこの上が南、
つまり上下が逆さになっており、
つまり上下が逆さになっており、
こうして見ると、わぁお、ヨーロッパ大陸が南北に狭いけど、イタリアも
一応ちゃんと見え、アフリカ大陸も大きく、
中近東辺りはとても正確な気がしません?!
一応ちゃんと見え、アフリカ大陸も大きく、
中近東辺りはとても正確な気がしません?!
この地図は「ルッジェーロの書」と呼ばれ、700年以上後の地図と
大きな違いがないそうで!
大きな違いがないそうで!
で、地図の正式な名は「世界横断を望む者の慰みの書」 または
「諸地方を旅行したいと願う人の気晴らしの書」というのだそうで!!
「諸地方を旅行したいと願う人の気晴らしの書」というのだそうで!!
12世紀に生きた賢人の、大きな夢を語る声が聞こえそう!!
という事で、パスタの歴史に戻りますが、
多分穀物は北アフリカから到着、1072年迄アラブ人が支配していた
シチーリア島からヨーロッパ大陸に到達したものと。
シチーリア島からヨーロッパ大陸に到達したものと。
この細密画は、15世紀頃のパスタ作りの2つの段階、
水で捏ね、細く伸ばして乾燥させる工程を示し、
という変遷で、マルコ・ポーロが中国から長い旅を戻って来た
1269年には、
1269年には、
イタリアでは既に何世紀間か、パスタが現実世界に溶け込んでおり、
ヴェルミチェッリ・細パスタの他に、マカルーニ・つまりショート・パスタ
の総称、があったと。
説明が必要なのは、現在の「スパゲッティ」なる語は18世紀からで、
マカルーニ・ラテン語のマカレに由来すると思われ、生地を圧縮する、
つまりショート・パスタの意味と。
つまりショート・パスタの意味と。
いずれにせよ、13世紀以降のイタリアでは、パスタ料理への言及が
ますます頻繁になっており、
ますます頻繁になっており、
ジョヴァンニ・ボッカッチョの著した「デカメロン」1353年では、
パルミッジャーノで出来た山の頂上で、何人かの料理人がマカロニや
ラヴィオリを、カッポーネ・去勢した雄鶏 のスープで調理し、
大食漢、食いしん坊たちが満足できる迄下に投げつけた、と!
ラヴィオリを、カッポーネ・去勢した雄鶏 のスープで調理し、
大食漢、食いしん坊たちが満足できる迄下に投げつけた、と!
14世紀の作家フランコ・サケッティは、2人に友人がマカロニを
食べる為に集まった様子を、この様に描写。
当時の習慣として彼らは共有の一皿で提供され、その一人は友よりも
お腹が空いている事を示し、
お腹が空いている事を示し、
「ノッドはマカロニをかき混ぜ始め、包んで押し付け、彼は既に
大6口をのみ込んでいたが、
ジョヴァンニはまだ最初の一口をフォークに乗せていて、
ジョヴァンニはまだ最初の一口をフォークに乗せていて、
盛大に湯気を立てているのを見て、口を近づける勇気がなかった」
目の前にど~んと、こんな感じかな、ははは。 分かる様な気もしますが・・。
中世、さらに16世紀になると、パスタ料理は現在と異なる特徴を持ち、
調理時間が長いだけでなく! スパイスの甘さと風味が混ざった、
今では驚くべき食材が添えられていたのだそうで。
今では驚くべき食材が添えられていたのだそうで。
つまりまだパスタは、金持ちの料理と考えられており、
1279年公証人ウゴリーノ・スカルパが起草した兵士ポンツィオ・
バストーネの遺言書には、
相続人に、「籠いっぱいのマカロニス」を、と!
相続人に、「籠いっぱいのマカロニス」を、と!
ほぼ同時期に、パスタに関する最初のレシピが、ナポリのアンジュー王
カール2世の宮廷で発行されており、
カール2世の宮廷で発行されており、
実際の乾燥パスタを使ったレシピについては、高位聖職者や
フォルツァ家に仕え、15世紀で最も重要なシェフと見做されている
マエストロ、マルティーノ・ダ・コモによる
「料理の芸術本」が。
彼の料理は、中世のスパイスを乱用する方法をやめ、材料の本来の
味を回復させた事で、レシピも正確、詳細、即自的で、
味を回復させた事で、レシピも正確、詳細、即自的で、
このラテン語で書かれたレシピ本はヴァティカンの使徒図書館長官の
バルトロメオ・サッキのお蔭で、ヴァティカン図書館に1冊残っており、
こうして彼の料理がヨーロッパ全土に普及したのだそうで。
バルトロメオ・サッキのお蔭で、ヴァティカン図書館に1冊残っており、
こうして彼の料理がヨーロッパ全土に普及したのだそうで。
そして16世紀半ばの教皇シェフ、バルトロメオ・スカッピは、
茹でた豚の内臓、子牛の乳房、ロースト・ポーク、パルミッジャーノ、
フレッシュ・チーズ、ハーヴ、スパイス、レーズンの混ぜ物のラヴィオリ、
を添えた茹でた鶏肉、
フレッシュ・チーズ、ハーヴ、スパイス、レーズンの混ぜ物のラヴィオリ、
を添えた茹でた鶏肉、
という、晩餐会用の料理の発明を!
現在のアート・ラヴィオリなる写真を。 ずっと美味しそうで、見た目もすっきり!
で、もっと激しい、はは、マエストロ・スカッピのレシピ、
「マッケローニ・アッラ・ロマーナ」なるものは、
「マッケローニ・アッラ・ロマーナ」なるものは、
小麦粉とパン粉をヤギの乳と卵黄と混ぜ合わせたものを用意し、
それを伸ばして生地のシートを形成し、それを薄い細片に切り、
マカロニを形成。
それを伸ばして生地のシートを形成し、それを薄い細片に切り、
マカロニを形成。
当時のマカロニは、必ずしも筒状ではなく、非常に変化したそうで、
それを乾燥させた後、マカロニを水で30分茹で、水気を切り、
チーズ、バター、砂糖、シナモン、そして水牛の乳から作られた
プロヴォラ・チーズのスライスで覆い、
チーズ、バター、砂糖、シナモン、そして水牛の乳から作られた
プロヴォラ・チーズのスライスで覆い、
最後に、少量の薔薇水を加えオーブンに30分入れ、
チーズを溶かし、マカロニにスパイスの風味を染み込ませた、と。
チーズを溶かし、マカロニにスパイスの風味を染み込ませた、と。
こうなると、出来上がりの姿、食べた時の感覚も想像できず、
食材に時間と手間をかけただけが特徴、みたいだと思われません?!
食材に時間と手間をかけただけが特徴、みたいだと思われません?!
が僅か1世紀後、少なくともナポリでの様子は大きく変わって行きます。
パスタが人気料理となり、一般的な栄養の基礎になりますが、
ナポリとシチーリア王国の広大な穀物農園が比較的低価格で
穀物を提供した事、
一般の人々の生活水準では肉食が少なかった事、
穀物を提供した事、
一般の人々の生活水準では肉食が少なかった事、
多分宗教的動機も影響し、肉の禁止日にはパスタが理想的な食事
だったろう事、
だったろう事、
そして多分パスタ普及の主な理由は、17世紀以降プレス機、延伸機
などの機械により工業生産が発展し、
などの機械により工業生産が発展し、
ロング・パスタ、細いパスタ、そしてショート・パスタの調理が可能に
なった事だろうと。
なった事だろうと。
17世紀 マカロニ・パスタの一皿 南イタリア
ナポリ国王フェルディナンド4世も、マカロニを大喜びで食べたそうで。
が、一般庶民は「それらを指でつかみ、くるみ、伸ばし、貪欲に
口に運び、ナイフ、フォーク、スプーンの使用を非常に寛大にも軽蔑した」と。
19世紀初頭、ナポリ人のマッケローニを食べる様子
この指で掴んで口に入れる図は、他にも見た事がありますが、
熱くなかったのか、と心配するのと同時に、
熱くなかったのか、と心配するのと同時に、
白いパスタ、つまりバターと、あれば上からチーズかな、と想像しますが。
白いパスタ・パスタ・ビアンカは、今でもたくさんのイタリア人が食べますし、
好きな人もたくさんおり、
こんな感じ。
19世紀末のナポリのパスタ売り。 奥で製造、店頭で乾燥と。
この時代となると、店の前での写真も残り、こんな様子。 ナポリ。
それにしても、如何にもの、はは、やらせ写真ですねぇ!
こちらは、シチーリアのパレルモ、と。 同じカメラマンの名で。
こちらは現在のナポリの食料品店、店頭を飾る様々なパスタ類。
で、決定的に変わったのはパスタの味付けで、
トマトが、特にイタリアとの国際交流の中心地である、スペインの
セヴィリアに最初に到着したのでしょう。
そう、トマトも、ジャガイモも、コロンブスのアメリカ発見後
1492年10月12日、ヨーロッパに到着。
1544年イタリアの薬草学者ピエトロ・アンドレア・マッテオーリが、
トマトの黄色い果実を[マーラ・アウレア・黄金のリンゴ」と定義し、
トマトの黄色い果実を[マーラ・アウレア・黄金のリンゴ」と定義し、
1554年に「赤いトマト」について語った、のだそうで。
そして同年、オランダの薬草学者ドドエンスが、詳細な説明を行い、
その果実は媚薬、としての評判を得ますが、
その果実は媚薬、としての評判を得ますが、
トマトが料理の材料として徐々に使用されるようになったのは、
18世紀になってからの事で、
我々が良く知っている最も古いナポリタンのレシピは、
「スペイン風トマト・ソース」で、その起源は1692年にまで遡ると。
今回、分家の絵のブログで、このレシピをお教えしますね。
ああ、漸くにshinkaiが好きなトマト・ソースのパスタ、の登場!で、
最後に心置きなく、
スパゲッティ・ボロニェーゼ
スパゲッティ・アッロ・スコーリオ、 イェーイ!
スパゲッティ・アッラ・カルボナーラ
そしてサイト記事には記述なしでしたが、これ、チーズの王様、
パルミッジャーノ・レッジャーノ、が欠けては落ち度になりますけんね、
パルミッジャーノ・レッジャーノ、が欠けては落ち度になりますけんね、
こちらを!
パルミジャーノ・レッジャーノ ・ イタリア・チーズの王
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461919691.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/461919691.html
ではでは、皆様も、パスタを発展させてきた歴史に感謝しつつ、
大口を開け、美味しいパスタをお召し上がり下さ~い! ボナアペティ!
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