いよいよコロナ禍も過ぎたかな、という所で、世界中が
再度旅行熱に取りつかれ始めたかな、という様子なのかも、で、
再度旅行熱に取りつかれ始めたかな、という様子なのかも、で、
秋の日本行きの飛行機切符を探し始めたshinkai、
その値段のお高さに驚いている所です。
その値段のお高さに驚いている所です。
それはさて置き、
巡礼の危険性:サンティアーゴ巡礼の道
I pericoli del pellegrinaggio: il cammino di Santiago
というサイト記事を読み、昔は凄かったろうなぁ、と想像していた
以上に酷かったらしい事情に、
巡礼の危険性:サンティアーゴ巡礼の道
I pericoli del pellegrinaggio: il cammino di Santiago
というサイト記事を読み、昔は凄かったろうなぁ、と想像していた
以上に酷かったらしい事情に、
気の毒とは思いつつも呆れて笑う程で、皆様にもお裾分けを、と
思いご紹介いたしますね。
思いご紹介いたしますね。
巡礼はしませんでしたが、shinkaiも一度、サンティアーゴ大聖堂と
町訪問はした事がありますので、写真でのご案内をどうぞ。
町訪問はした事がありますので、写真でのご案内をどうぞ。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474113993.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474113993.html
さて、キリスト教徒にとっての3大巡礼地は、というと、まずローマ、
そしてサンティアーゴ・デ・コンポステーラ・Santiago de Compostela、
そしてローマから船に乗りジェルサレム・Gerusalemme、だそうで、
各地への巡礼者の標識というか、荷に付けて身分を示す持ち物が
あり、サンティアーゴへの巡礼者の標識は、
あり、サンティアーゴへの巡礼者の標識は、
ホタテの貝殻と、
水筒代わりのカボチャ。 はい、瓢箪ではなくカボチャ。
そして何か月も、ひょっとして何年になるかもしれない留守を頼み、
そうやってキリスト教徒の世界から何千人もの信者が毎年、
聖ヤコブ・ジャン・ジャコモ、呼び方は様々ですが、
聖ヤコブ・ジャン・ジャコモ、呼び方は様々ですが、
スペインのほぼ北西端の聖使徒の墓巡礼に歩いたのですね。
ご想像あれ、中世の、当時の道の悪さ、道案内の欠如、
盗賊、そして悪徳宿の主人が、
彼らの旅を、波乱万丈の長旅にしたのでした。
盗賊、そして悪徳宿の主人が、
彼らの旅を、波乱万丈の長旅にしたのでした。
中世にサンティアーゴ巡礼道を制覇する事は大きな挑戦で、
幾ら本質は宗教の旅程、とはいえ、巡礼者が克服しなければならない
困難は、まさに障害物競走にも似て、
おまけに巡礼者たちは単に聖人の墓に詣でるだけでなく、
無事に故郷に戻り、その功績を村人たちに語り伝え、
称賛を受けなければ、意味が無かったのですね。
無事に故郷に戻り、その功績を村人たちに語り伝え、
称賛を受けなければ、意味が無かったのですね。
真実な賛美の中には、スロヴァキアなどの幾つかの土地では、
巡礼者は3回の旅をした証明が出来れば、
永遠の税金免除を受けられたそうで!
長い間の留守も問題でしたが、同時に旅での病気、詐欺、そして
あらゆる種類の盗難、虐待にも対処せねばならず、
おまけに、シラミ、トコジラミ、蚤でいっぱいの犬、極端な天候、
気温、足に合わない靴での困難な道、無数の災害に耐え、
そして、知らない地域、言語の違う場所を横断していくのですね。
フランスの修道士アイメリク・ピコー・Aymeric Picaudは有名な
12世紀のカリクスティヌス写本で、巡礼者が直面した危険についての
証言を残しており、
「東部のロルカ・Lorcaと呼ばれる場所には、サラド・Saladoという
川が流れているが、お前もお前の馬も立ち止まって飲んではいけない。
この川は致命的な川なのだ」
川が流れているが、お前もお前の馬も立ち止まって飲んではいけない。
この川は致命的な川なのだ」
「サンティアーゴの方向に、岸に座って2人のナバラ人がナイフを
砥いでいるが、それはその川水で死んだ巡礼者を殺す為に
使ったナイフなのだから」
砥いでいるが、それはその川水で死んだ巡礼者を殺す為に
使ったナイフなのだから」
と、危険な流れの川、うっとおしいアブ、だます船頭、暴力的で
意地悪な人々についても警告を。
12世紀以降、スペインのキリスト教王国がイスラム教徒を追放して
以来の、レコンキスタ・再征服、と呼ばれるものですね、
サン・ジャン・ピエ・ド・ポール・Saint-Jean-Pied-de-Portと、
ロンセンバーレス・Roncisvalleから、サンティアーゴ・デ・コンポステーラ
に至る、
フランス道と呼ばれる道が、巡礼者が最もよく利用する旅程になったと。
一日の行程が見積もられており、33日間!
こちらの左上は、標高差を現し、左下に全行程785,4kmとあり、
色付きの円の、黄色は整備された道、緑が小道、グレーが舗装道。
色付きの円の、黄色は整備された道、緑が小道、グレーが舗装道。
右側に1日分の距離、kmが見え、初日のサン・ジャン・ピエを
出発してのピレネー越えが26.4kmと、これがキツそう!
出発してのピレネー越えが26.4kmと、これがキツそう!
サン・ジャン・ピエ・ド・ポールの手前にあるオスタバト・Ostabatには、
ブレターニャ・フランス北西、フランドル・ベルギー、オランダ方面、
ガスコーニュ・フランス南西部、ハンザ、フランク・ドイツ系からの
巡礼者たちが、
何か月も前に自分の故郷を出て集結し、
サン・ジャン・ピエ・ド・ポールで力を取り戻すために立ちどまり、
この出発点の町がこんなに美しいのを初めて知りましたが、
ピレネーを越え、ロンセスバレスに。
彼らは他のヨーロッパの巡礼時の習慣と同じ様に、常にグループで
旅をしようとしたのも、
旅をしようとしたのも、
ロンセスバジェス・Roncisvalle、レオン・León、ナバラのバルデナス・
Bárdenas della Navarraでは、群盗団が横行し、
モンテス・デ・オカ・Montes de Ocaは犯罪者の巣窟となり、
自治体の民兵では追い出すことも出来ず、
自治体の民兵では追い出すことも出来ず、
当時の民間の諺に、「盗みたいならモンテス・デ・オカに行け」と
言うのがあったそうで!
言うのがあったそうで!
こちらはナバラ地区にあるサンタ・マリーア・デ・イラチェ修道院・
Santa Maria de Irache. 巡礼者の為のホステルとなった
最初の修道院だそう。
道に沿った標識の貧弱さは、特に雪が小道や足跡を覆ってしまう
山道では、最も懸念される問題の一つで、
山道では、最も懸念される問題の一つで、
道の近くに棒や支柱を打ち込むのが慣行でしたが、メンテナンスも
悪く、人々はホステルや避難所の近くにしかおらず、
悪く、人々はホステルや避難所の近くにしかおらず、
時折の、嵐が激しい時、霧が非常に深い時は、修道院の鐘の音で
自分の方向を確認し、
自分の方向を確認し、
また巡礼者たちは日数で距離を測定し、太陽と星に向きを合わせ、
時に古代ローマのマイルストーンや、交差点に出くわす幸運に
恵まれた時は、距離ではなくとも、道を示してくれたのですね。
時に古代ローマのマイルストーンや、交差点に出くわす幸運に
恵まれた時は、距離ではなくとも、道を示してくれたのですね。
ロロス・Rollos、十字架が上にある柱、さらし台など、死刑囚が
晒された構造物、そして交差点は目印として14世紀以来旅人を
援けましたが、
1214年にサンティアーゴへの巡礼をしたと言われるアッシジの
聖フランチェスコによって広まった十字架崇拝にもより、
聖フランチェスコによって広まった十字架崇拝にもより、
道の宗教的な特徴を統合するだけでなく、
国境の目印として機能したり、痛ましい逸話の場所を示したり・・。
また鐘楼は、道に迷う危険を冒した巡礼者を導くための地上の
灯台として機能し、
広大な穀物畑の真ん中の丘の上にある小さな村の家々は、
旅行者にとっては視覚的な基準点になり、
旅行者にとっては視覚的な基準点になり、
遠い距離から見える教会の鐘楼、大聖堂の塔、城、大きな
教会建物も良い道しるべになりました。
教会建物も良い道しるべになりました。
そうですねぇ、これはイタリアに住んでいるとよく分かる事で、
まさに各村、町の教会の鐘楼が、方角を知らせる大きな目印ですね。
とはいえ、巡礼者の最大の懸念は、
ピレネー山脈と、聖地の町の間の800kmのルートを確実に
監視する事が非常に困難だった、安全性の欠如だったのですね。
群盗の攻撃は頻繁に行われ、とりわけ巡礼者の通過が最も多く
危険な状況の地域、
例えば上にも出たブルゴスのモンテス・デ・オカ周辺の危険な森などなど。
危険な状況の地域、
例えば上にも出たブルゴスのモンテス・デ・オカ周辺の危険な森などなど。
こういった盗賊に対処する為に、1269年ナバラのテオバルド2世は、
居住地の無い長い道路を避けるエル・エスピナル・El Espinal の
村を建設、
つまり犯罪集団者の仕事のし易さを防ぐ為、とでも・・。
居住地の無い長い道路を避けるエル・エスピナル・El Espinal の
村を建設、
つまり犯罪集団者の仕事のし易さを防ぐ為、とでも・・。
そして、ちょっと見え難いのですが、この図をご覧下さいね。
下に並ぶ紋章がこの「フランスからの道」の巡礼達が通り抜ける
様々な国の紋章で、
様々な国の紋章で、
つまり巡礼者たちは、様々な国を横断して行くのに、その都度
6回か7回両替をしなければならなかった訳で、
両替商の両替率で騙されたり、売り物の重量を替えたり、
あらゆる種類の欺瞞の常習的な犠牲者でもあり、
あらゆる種類の欺瞞の常習的な犠牲者でもあり、
一応33日の行程、というのが最初にありましたが、33日間で
6回という事は、5日毎に両替しないといけないわけで、
何ともはや、ややこしかったでしょうねぇ。
6回という事は、5日毎に両替しないといけないわけで、
何ともはや、ややこしかったでしょうねぇ。
より簡単に盗めるよう、宿の主人が睡眠薬を飲ませたり!
となると、宿の主人にも注意が必要で、
地元の領主が既に法律で支払いを免除しているにも拘らず、
橋や、川を舟で渡る通行料を強制したり。
橋や、川を舟で渡る通行料を強制したり。
詐欺も日常茶飯事で、時々2人の詐欺師が路上で見つけた
金色の鉛のコインを巡る争いを見せかけ、
金色の鉛のコインを巡る争いを見せかけ、
善意に満ちた巡礼者は、偽の金貨と引き換えに、2人にそれぞれ
自分のコインを提供する事で喧嘩を宥めるために介入したりで!
自分のコインを提供する事で喧嘩を宥めるために介入したりで!
使徒たちの最後の晩餐図。 右端に巡礼に扮したジャコモが。
サンティアーゴへの巡礼道は、聖者と奇跡の道であったので、
偽の証書や、偽の遺物を扱う悪党も多く待ち構え、
偽の証書や、偽の遺物を扱う悪党も多く待ち構え、
巡礼者の服装、棒、マント、財布、帽子を身に着けたベテランの
俳優もおり、本物の巡礼者の信頼を盗み、気を散らさせて盗んだり、
俳優もおり、本物の巡礼者の信頼を盗み、気を散らさせて盗んだり、
旅行者の慈悲をひきつける為に怪我を装ったりしましたが、
これらの悪党の多くが外国人、とりわけイギリス人で、
巡礼者たちが他人に変わって施し物を預かり、服の裏地に入れておくのが
多いのを知っており、盗むのは簡単であるのを知っており、
巡礼者たちが他人に変わって施し物を預かり、服の裏地に入れておくのが
多いのを知っており、盗むのは簡単であるのを知っており、
ナバラ州のエステラとサングエサの地域で、この種の苦情が多かったと!
旅先で盗まれるのは、本当に気の毒ですよねぇ。
こうした巡礼途中で犯される余りにも多くの犯罪や虐待をほって置けず、
国として法的に規制する事となり、
カスティーリアの賢王アルフォンソ10世(1221-1284)の
フエロ・レアル・Fuero Real・王室管轄(王国内の法律を標準化する為に
発行)が確立され、
我々の王国を横断するすべての旅人や巡礼者、特にサンティアーゴに
往き来する人々は安全でなくてはならない。
彼らに、我々の領域に行き来し、滞在する為の安全の特権を与える」と。
往き来する人々は安全でなくてはならない。
彼らに、我々の領域に行き来し、滞在する為の安全の特権を与える」と。
また巡礼者が旅に持ってきた品物を所有する事の保証規則も出来、
これは1390年頃、カスティーリア王フアン1世(1358-1390)の治世の
終わりに、
終わりに、
巡礼者は馬丁、速足の馬、雌牛を自由に持ち込み、持ち帰ることが
許可され、
「それらがカスティーリア生まれでない事が証明できれば」となり、
彼の甥のフアン2世(1406-1454)は、旧大陸からの巡礼者に安全な
行動を許可し、国王の臣下と見なされて彼らの商品やその他の財産が
没収されないよう命じ、
更に「フエロ・レアル」で、
「各地の市長が、宿屋の主人のせいで、また他の人から受けた損害を
巡礼者に補償しなかった場合、
「各地の市長が、宿屋の主人のせいで、また他の人から受けた損害を
巡礼者に補償しなかった場合、
嘆願書が巡礼者から提出された後、正義が与えられていない場合、
被った損害とその為に負担しなければならなかった費用の2倍を、
遅滞なく巡礼者に支払う事」と。
またアルフォンソのテキストでは、巡礼道での泥棒と、それ以外の
場所で盗んだ者を区別し、
最初のケース、巡礼者からの窃盗は通常死刑で罰せられたため、
はるかに刑罰が厳しく、
はるかに刑罰が厳しく、
こうした巡礼道途中での暴行に対し、死刑が課されたいくつかの
ケースが記録されており、
1332年巡礼者を襲って逮捕された2人の泥棒のうち、1人は絞首刑、
もう1人は鞭打ちのうえ、耳を切り落とされ、
もう1人は鞭打ちのうえ、耳を切り落とされ、
同じ理由で、サラス・Salasのアストゥリアス聖域から盗んだ
ジェノヴァ人が絞首刑に。
つまり巡礼者でも、途中で悪事をすると同じ扱いとなったという、
はい、平等ですね。
と、ちょっとおもしろい逸話も見つかり、
アンドレス・Andrésなる男が、巡礼者の荷物とお金を盗み
逮捕された時、
盗みの首謀者である修道院長の兄を非難、告発かな、
盗みの首謀者である修道院長の兄を非難、告発かな、
修道院長は教会建物が享受している免責から身を守るために
教会に避難したものの、
盗んだ金銭を戻し、許しを得るためにサンティアーゴに2回巡礼
盗んだ金銭を戻し、許しを得るためにサンティアーゴに2回巡礼
せねばならず、職と利益を奪われた、と。
が、実際に盗んだ弟の方は絞首刑に。 と読みますと、
この判決は正しかったか否や、ちょっと引っかかりません?
この判決は正しかったか否や、ちょっと引っかかりません?
そして巡礼者の重要な持ち物の1つはカボチャ、はい、これは日本の
瓢箪と同様、水筒として使われたもので、
旅行者は途中に作られた泉や水飲み場で水を補給したのですね。
所がこれらの泉は巡礼者が個人の衛生管理の為にもの休憩所としても
機能しており、
機能しており、
一般的に蚤、シラミ、トコジラミがはびこっていたのだそうで!!
今日でもその時代に遡る泉があり、
その名前は巡礼者たちが使用した事を想起させるのがあり、
ブルゴス周辺では、フエンテ・デ・ロス・ピオホス ・Fuente de los Piojos
(シラミの発生源) ははは、 上の写真は関係ありませ~ん。
(シラミの発生源) ははは、 上の写真は関係ありませ~ん。
イテロ・デル・カスティーヨ・Itero del Castillo、モハパン・
Mojapán(パンを浸す)というのは、
モンテス・デ・オカの上りに添って、旅人が乾いたパンを濡らして
柔らかくする、と言われていたのだそうで。
そしてサンティアーゴから最早僅か10km程しか離れていない時、
巡礼者は伝統的にラバコラ川・Lavacollaで体を洗う必要がありました。
とはいえ、コンポステーラの大聖堂内は、巡礼者の匂いでいっぱいで、
というのも、一日中開いているのを利用し、中で寝たもので、はい。
というのも、一日中開いているのを利用し、中で寝たもので、はい。
悪臭問題は、少なくとも14世紀から存在し、今日大聖堂のシンボルの
巨大な香炉で改善しようとしたのが、始まりなんだそうで。
巨大な香炉で改善しようとしたのが、始まりなんだそうで。
大聖堂入り口の、栄光のポルティコ。
そして犯罪者の危険は、最後まで巡礼者に付きまとい、
サンティアーゴの路上で、町の宝石商によって広く使用されている偽の石と、
巡礼の完了を思い出させ、証明する偽の貝殻の売り手を避けねばならず、
巡礼の完了を思い出させ、証明する偽の貝殻の売り手を避けねばならず、
13世紀に教会は、このコンケイロ・貝殻職人の店の販売管理に、介入
しなければならなかったと。
しなければならなかったと。
そして最後に教会の屋根にあるクルス・ドス・ファッラポス
(ぼろきれの十字架)の前で、着てきた古い服を脱いで
燃やすのが通例でしたが、
衣服は中世の貴重な商品であり、燃やされる運命の一部は、
他の貧しい巡礼者に売られるために、道に戻されたそうで、ははは。
最後に巡礼者はアザバケリア広場・Plaza de la Azabacheríaに到着し、
そこで彼は使徒の町に無事到着した事に対する中世の喜びの叫び声、
ウルトレイア!・Ultreia!を叫ぶことが出来たのでした。 おめでとう!!
今迄の苦労連続の冒険は、巡礼の完了を証明する文書、現在の
コンポステーラ、と、
この写真は、各地での御朱印を押すものなのかも。
巡礼者個人が永遠に獲得した個人的、および精神的利益により
報われたのでした。
報われたのでした。
大聖堂ご本尊のサンティアーゴ聖人像。
n.1 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474164921.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474164921.html
n.2 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474165434.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474165434.html
n.1 サンティアゴの街 ・ 中心広場の周辺を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114344.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114344.html
n.2 中世の巡礼の街 サンティアゴの旧市街を
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114581.html
https://italiashinkaishi.seesaa.net/article/474114581.html
中世には何百万人ものヨーロッパ人が巡礼し、大変な繁栄を見た
コンポステーラへの巡礼も、中世後期以降はヨーロッパの戦争、黒死病、
1378年のキリスト両世界の分裂があり、大幅に減少。
コンポステーラへの巡礼も、中世後期以降はヨーロッパの戦争、黒死病、
1378年のキリスト両世界の分裂があり、大幅に減少。
そして16世紀以降、修道院のもてなしの消滅があり、巡礼者の姿は
実質的に消えたのでしたが、
実質的に消えたのでしたが、
20世紀半ばになり、巡礼道復活を目的とした様々な運動が生まれ始め、
国の政権の新たな関心、1980年代の教皇ヨハネ・パオロ2世の訪問、
そして1987年の世界遺産の宣言のお蔭で、
そして1987年の世界遺産の宣言のお蔭で、
カミーノ・デ・サンティアーゴは、退廃から、西側世界で最も重要な
巡礼地に復活。
巡礼地に復活。
現在は世界各地から訪れる年間20万人を超す巡礼者がおり、
コロナ禍でも細々と続いていた様子で、
今年度はきっとまた復活の大きな数字の報告がある事でしょう。
コロナ禍でも細々と続いていた様子で、
今年度はきっとまた復活の大きな数字の報告がある事でしょう。
写真で見る広大な平地に憧れつつ、遂にあの道を歩くのは断念ですが、
でもね、薄い宗教心でも、あの風景の中に立つのは、まだOKかも・・、
と思っている私めなので~す。
今回は、本当に驚く程の様々な犯罪的逸話が語られ、逆に興味も
沸いてご案内したのですが、はぁ、
そうね、中世の昔も今も、人間のする事はあまり変わらないのね、と
可笑しくも、感心したのも事実なのでした。
可笑しくも、感心したのも事実なのでした。
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